
※証言やいただいた文章に基づいて記載しています
熊本市 福永さん(70代)
これは、熊本大空襲当時、熊本大学産婦人科に医師として勤務していた私の親族による記録です。*原文を基に一部書き換...
熊本市 松尾さん(40代)
祖父は天草出身で、飛行機の整備士をしていました。1945年のある日、爆撃機が飛来し、私は太腿を撃ち抜かれ、広島市...
熊本市 坂本さん(102歳)
1923年生まれの私が終戦を迎える前、1944年に21歳で熊本から満州の鞍山(あんざん)に住む姉夫婦のもとへ移り...
熊本市 男性(40代)
昨年4月、私の祖母が100歳で他界しました。祖母は20歳で熊本に来るまで広島で暮らしており、生前は戦争の記憶を語...
菊池郡 中山さん(40代)
亡き祖母から聞いた、忘れられない光景についてお伝えします。1929年生まれの祖母は、1945年8月9日当時16歳でし...
阿蘇市 坂梨さん(90代)
戦争を体験した者として、最も記憶に残っているのは、阿蘇上空での空中戦です。1945年、アメリカ軍による日本本土攻...
熊本市 秦さん(80代)
1910年生まれの私の父が、1987年頃に孫へ戦争体験を語った際の録音記録をまとめたものです。父は1941年9月に...
熊本市 米村さん(60代)
去年93歳で亡くなった母は、熊本港(熊本市)近くで生まれ育ち、10人以上の兄妹がいました。 私が小学生の頃...
熊本市 山本さん(60代)天草市 石原さん(50代)
天草市栖本町では、今も午後5時になると、どこからともなく鐘の音が聞こえてきます。その音は、不知火海を見下...
玉名郡 西田さん(50代)
1931年生まれの私の母から聞いた話です。母が小学校に通っていた頃は、モンペに防空頭巾をかぶり、救急袋とラン...
熊本市 伊藤さん(70代)
2020年に亡くなった1919年生まれの母は、戦時中、多くの人がそうであったように、自身を「軍国少女」と語って...
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 男性(40代)
昨年4月、私の祖母が100歳で他界しました。
祖母は20歳で熊本に来るまで広島で暮らしていて、生前は戦争の記憶を語ることを避けていましたが、
私が20歳を過ぎた頃、何気ない会話の中で、戦時中の体験を話してくれたことがあります。
その話によると、祖母は戦時中、広島城で出兵する兵士たちの名簿を作成する仕事に従事していて、
周囲には多くの兵士たちがいたそうです。
1945年8月6日、その日も朝早くから作業を続けていたところ、
突然強烈な光に包まれ、反射的に机の下に身を隠したとのことです。
原爆が投下されたのです。
意識を取り戻した時、周りは亡くなった兵士たちの遺体で埋め尽くされていたと祖母は語っていました。
家族との合流地点へ向かうため川を渡る必要がありましたが、橋は壊れていて、
泳いで渡るしかありませんでした。
それまで泳ぐことができなかった祖母ですが、必死の思いでなんとか川を渡りきったそうです。
しかし、川を泳いでいる最中に流れてきた大木にぶつかり、膝を怪我したと聞いています。
幸いにも、被爆による身体への直接的な被害はその膝の怪我だけで済んだそうです。
その後、無事に家族と再会できた祖母は、親戚であった祖父の家に身を寄せ、
後に祖父と結婚し、私の父が生まれました。
被爆三世である私も、父と兄弟と共に幸せな日々を送っています。
熊本市 福永さん(70代)
これは、熊本大空襲当時、熊本大学産婦人科に医師として勤務していた私の親族による記録です。
*原文を基に一部書き換えています。
1945年6月30日深夜(7月1日)、ついに熊本にも敵機が襲来しました。
その日私は、医局と実験室を守るため当直に就いていました。
病棟では他の医局員と数名の看護師が病院と患者を守っていました。
激しい数度にわたる敵機の波状攻撃は、防空も防火も全く役に立たず、
私たちはただ自分の命を守るだけで精一杯でした。
基礎教室も病院も全焼し、わずかに研究所と病院の鉄筋部分だけを残して、
一夜のうちにすべてが灰燼と化しました。
生き残った患者と病院の職員は、なんとか白川の堤防や河原に避難し、
ただひたすら夜明けを待ちました。
夜通し駆けつけてくれた先生は、産婦人科の全入院患者と職員の一団を見つけ、走り寄り、
爆撃の中、一晩中患者を守り抜いたことを激賞し、心からの感謝の言葉を述べられました。
この中には、前日に外科で手術をした看護師もいました。
彼女は一人で避難し、病院玄関の睡蓮の池に浸かり、
傷口を押さえながら夜通し同僚を待ち、助かりました。
教授と教室の皆は、このことを知り、驚きと喜びに包まれました。
熊本市 坂本さん(102歳)
1923年生まれの私が終戦を迎える前、1944年に21歳で熊本から
満州の鞍山(あんざん)に住む姉夫婦のもとへ移り住んだ時のことをお話しします。
鞍山は鉄鋼生産が盛んで、製鋼所が多くありました。
そのため、アメリカ軍の攻撃目標となっていたようで、私が鞍山で働き始めた初日、
建物の中で空襲警報が鳴り響きました。
20〜30人の同僚は建物から飛び出して走り出し、私も夢中でその後を追いました。
どこに向かったのかは思い出せません。
空襲は激しく、熊本で経験した焼夷弾ではなく、爆弾が投下され、
直径約10メートル、深さ約2メートルの陥没穴がいくつもできていました。
そのような状況下でも、当時の日本政府は満州での仕事を奨励していて、
給料も本土の約4倍だったため、10代半ばの男性が数多く移り住んできました。
鞍山の街は「寮の町」とも呼ばれ、多くの日本人で活気に満ちていました。
しかし、太平洋戦争の戦況が悪化すると、働きに来ていた10代の男性たちは
戦地へと召集されていきました。
今でも覚えているのは、出征していく男性たちの表情です。
当時20代の私にはまだあどけなさが残る「男の子」といった感じで、
不安そうな気持ちが表れているように感じました。
彼らは日本本土から来ているため身寄りがなく、親や兄弟に出征する姿を見せることなく
戦地へ向かうのです。
私は、連日、鞍山駅から出征していく男の子たちを見送り続けました。
彼らがその後どうなったのかは分かりません。
終戦後は過酷な日々が待っていました。
給料は突然なくなり、生きていくために持っていた衣類などを売って食いつなぎました。
街の雰囲気も変わり果て、鞍山の街には旧ソ連軍が入ってきました。
この頃から女性は旧ソ連兵に襲われないよう、頭を丸刈りにしていました。
早く本土に帰りたい。この思いが叶ったのは、終戦から1年後のことでした。
私は子どもを授かった状態で、夫と二人、引き揚げ船(輸送船)に乗り込みました。
しかし、その船は客席があるようなものではなく、全員が甲板にいる状態でした。
8月ということもあり、直射日光を浴び続け、船の上で命を失う人もいました。
小さな子どもを抱えた母親が亡くなった時、何も分からず泣き続ける子どもたちの姿に胸を痛めました。
また、船で亡くなった人たちの遺体を海に落としていく状況は、今も脳裏に焼き付いています。
上益城郡 男性(40代)
幼い頃から祖父が戦争体験を話していました。
祖父は陸軍で衛生兵をしており、階級は中尉でした。
満州にいた祖父は、終戦間際の1945年。
旧ソ連参戦により決死の逃亡を経験しました。
仲間が銃で撃たれ、旧ソ連軍の追撃をかわしながら
「自分の心臓の音が耳で直接聞こえる」ほどの恐怖を味わったそうです。
土手に隠れ、「ここに来たら刺し違えてもやってやる」とナイフ軍刀を握りしめ
覚悟を決めた瞬間に旧ソ連兵の集団が引き上げたという話は、
祖父の体験の中でも特に印象的でした。
その後、祖父は中国語が堪能だったので、名前を変え中国人になりすまし、
日本へ向かう船の情報を待ち続け、福岡に帰り着くまで1年もの歳月を要しました。
戦後、生まれ育った大牟田福岡が焼け野原となり、多くの仲間が生きる意欲を失う中、
祖父は「俺はもう全てを失った、もう一度、いちから生きなおそう」と
三池炭鉱で働き始めました。
しかし事故に巻き込まれ、晩年は脳梗塞の後遺症に苦しみながらも
「戦争は二度とやっちゃいかん」と口癖のように語っていました。
熊本市 松尾さん(40代)
祖父は天草出身で、飛行機の整備士をしていました。
1945年のある日、爆撃機が飛来し、祖父は太腿を撃ち抜かれ、
広島市内の国立病院に入院することになりました。
当時、病院では皆が鈴をつけなければならなかったのですが、
祖父はそれをなくしてしまったそうです。
慌てて探すと、鈴はベッドの下に落ちていました。
祖父がベッドを降りて鈴を拾おうと這いつくばったその時、
空にはB29が旋回しているのが見えました。
B29は何か黒い物体を落とし、その瞬間、あたりは真っ暗になりました。
祖父の体の上にはベッドや瓦礫がのしかかっていましたが、
なんとか抜け出すと、周囲は瓦礫の山と化していたといいます。
近くには、面識のある看護師さんが倒れていました。
彼女の体は半分ほど埋まり、少し焦げていました。
祖父が彼女を引き上げると、体は半分くらいなくなっていたそうです。
祖父が声を張り上げて誰かいないか探すと、
一人の声が聞こえ、瓦礫の下には血まみれの人がいました。
その人を抱き抱え、さらに人を探して歩き続けましたが、
抱えていた人は亡くなっていたようです。
喉が乾いてたまらず、水を求めて歩いていると、雨が降ってきて、
落ちていた容器に雨水を貯めましたが、
それは黒い水だったので飲むことができませんでした。
次第に窪みには黒い水が溜まり、
血塗れの人々が這いつくばってその黒い水に群がり、
そのまま息絶えていきました。
祖父は被爆者となり、足の長さが次第に変わり、
歩けなくなったため、腰の手術を3回行いました。
そのような祖父でしたが、96歳まで生き、
私たちに戦争の悲惨さを伝えてくれました。
菊池郡 田中さん(70代)
私の家族が経験した戦争と戦後の生活について、筆を執らせていただきました。
私の父は南方戦線で終戦を迎え、蚊が媒介するマラリアに罹患し、
生死の境をさまよっていたそうです。
上官は父を見捨てて帰ろうとしたようですが、部隊にいた同じ地区出身の兵士が
「自分の責任で連れて帰る」と父を背負って故郷へ帰ってきてくださいました。
父は故郷に戻った後も病気が回復せず、療養中に結婚しました。
そのため母は、私が生まれた後も私を背負って父を見舞うために病院に通い詰めました。
父が入院する古い木造の病院の薄暗く長い廊下で、
黒猫の光る目に驚いて病室に逃げ込んだ記憶があります。
ベッドの上から、泣きじゃくる私を父が笑いながら見ていました。
それが、父との唯一の思い出です。
そんな父も私が1歳半の頃に他界しました。
そのため、父の顔は遺影でしか知りません。
一方、母は戦後、病気療養中の父と結婚したことで、苦労が続きました。
土地を借りて山を切り開き、焼き畑農業で野菜を育てたり、蚕を飼ったりしました。
また、日雇いに出て、男性と同じように土木作業で現金を稼ぎました。
地下足袋一枚で力仕事を続けたため、足の爪は変形していました。
母は、日の出から日没まで働き詰め、女手一つで私を育ててくれました。
私たち親子は直接の戦争被害者ではないかもしれませんが、
もしも戦争がなかったなら、もし父が無事であったなら、
母はもっと普通の幸せな人生を歩めたのかもしれないと思うことがあります。
葦北郡 松村さん(80代)
1945年、私が3歳の頃の記憶です。
当時、私が住んでいた熊本県葦北郡でも戦況が悪化し、たび重なる空襲に見舞われました。
空襲警報が鳴るたびに、母に手を引かれ、自宅から200メートルほど離れた防空壕へ
避難していたことを覚えています。
その中でも、特に鮮明に記憶に残っている空襲があります。
それは、自宅からおよそ1キロの場所にあったトンネルを狙ったと思われる機銃掃射です。
私たちが防空壕に逃げ込んだ後、耳にしたすさまじい銃撃音。「バッバッバッバッバッバッ…」と、
連続して戦闘機から弾が発射される音が、まさに私たちがいる場所の上空から聞こえてきました。
アメリカ軍の戦闘機は、トンネルに避難している人々がいることを知っていたかのように、
何度も攻撃を繰り返していました。
その時の銃撃の跡は、80年経った今も残っています。
そして、あの時の爆音は、私の耳から決して離れることはありません。
八代市 徳永さん(98歳)
今年98歳になる私は、生まれてからずっとこの地で暮らしてきました。
18歳だった戦時中の記憶として鮮明に残っているのは、敵機の襲来です。
「グォー」という音を立てて上空を通過するたびに怯えていました。
一方で、地元のお年寄りが「竿竹で(敵機を)落とせ、突き落とせ」と叫んでいたことも覚えています。
そのような戦争を体験した中で、今でも抱き続けている思いがあります。
それは、私のきょうだいのほとんどが女性で、戦地に行く者が誰もいなかったということです。
当時の私は、その状況を心から「恥ずかしい」と思っていました。
地域の男性たちが次々と戦地へ行く中、徳永家からは誰も行けない。
「何か国のお役に立てていない」という思いが強くあり、毎日が気兼ねする日々でした。
その思いは、80年たった今も残り続けています。
戦争のことを思い出すたびに「兵隊、兵隊」とつぶやいてしまいます。
戦争の記憶を鮮明に保ち続けていることに、
徳永さんは最後に「どれだけの苦労だったか」と深く言葉を噛みしめました。
阿蘇市 坂本さん(70代)
1918年生まれの私の父は、太平洋戦争中、
海軍兵として日本の各地にある海軍基地に勤務していました。
戦後、父は小学生だった私に、夕食のたびに当時の話をよくしてくれました。
父は整備士であり、試験パイロットでもあったため、戦闘機の試運転として、
茨城県の霞ヶ浦から鹿児島県の鹿屋まで、何度も飛行テストを行っていたそうです。
その際、万が一の墜落に備え、太平洋の海面すれすれを飛行していたと聞きました。
このように、父が命がけで整備した戦闘機は、時には特攻隊の機体としても使われました。
通常、特攻隊の機体には片道分の燃料しか許されていませんでしたが、
父は「できれば生きて帰ってきてほしい」という思いから、
上官の目を盗んで往復分の燃料を入れていたそうです。
しかし、実際に基地に戻ってくることができた隊員が何人いたのかは分かりません。
次々と若い少年兵たちが命を落とすために離陸していく姿を見続ける中で、
父は生と死が紙一重の時代であったことを痛感していたようです。
そんな父が69歳で亡くなった時には、
当時少年兵で生き抜いた人たちが、我が家を訪れて手を合わせてくれました。
人吉市 橋本さん(50代)
1944年、戦況は悪化の一途をたどり、食糧事情も極めて厳しくなりました。
祖父が戦地で口にできたのは、1日に盃一杯ほどの米だけだったそうです。
そのわずかな米2、3粒とかずらの葉で粥を作り、それが一食分だったと聞いています。
ある日、祖父は輸送船「大和」に乗船することになりました。
行き先は知らされなかったそうです。
夕日が西に傾き始め、穏やかな海を進む輸送船の甲板で仲間と語らっていたその時、
「ドーン」という轟音が響き渡りました。
米軍からの魚雷攻撃でした。
船は一瞬にして縦横に引き裂かれ、瞬く間に沈み始めました。
祖父は海に投げ出され、頭部を負傷しました。
海には重油が流れ出し、引火の危険があったため、必死で泳いでその場を離れたそうです。
救助されるまでの5時間、祖父はただひたすら泳ぎ続けました。
その後3か月間、祖父は治療のため野戦病院に入院しました。
そして翌年8月、天皇陛下の玉音放送により、長く苦しい戦争はついに終わりました。
しかし、終戦から1か月、2か月が過ぎても、祖父が家に戻ることはなく、
戦死の通知も届きませんでした。
祖母は毎日不安でたまらなかったと聞いています。
それでも祖母は、祖父が必ず帰ってくると信じて待ち続けました。
そして終戦の翌年、1946年5月、昼前でした。
軍服姿でバッグを持った男性が玄関に立っていました。
「あらー」と、祖母は珍しい生き物を見るかのように目を丸くしました。
そこに立っていたのは、祖父でした。
祖母にとって、この時が人生で一番幸せな瞬間だったに違いありません。
祖父はにこやかに微笑みながら「元気に帰ってきましたよ」と告げたそうです。
熊本市 清田さん (80代)
終戦の年、私は9歳で北九州に住んでいました。
製鉄所があったためか、北九州は頻繁に空襲に襲われ、
昼夜を問わず空襲警報が鳴り響くたびに、
母と自宅近くの山に掘られたトンネルのような防空壕へ逃げ込んでいました。
防空壕の中はいつも湿っていて、数百人もの人たちが身を寄せ合い、
敵機が去るのを待つ日々でした。
そのような空襲が日常と化していた中でも、1945年6月29日の空襲は
特に鮮明に記憶に残っています。
午前0時15分頃から約1時間、
月明かりが見えなくなるほどにB29が次々と波状的に襲来しました。
防空壕から町を臨むと、町中が夕焼けよりも明るく燃え上がっていたのを覚えています。
翌日、空襲の被害を受けた町を歩くと、
爆弾が落とされたと思われる大きなすり鉢状の穴が地面にできており、
その近くの建物の屋根には、赤ちゃんをおんぶした状態の女性が亡くなっていました。
恐らく、爆弾で吹き飛ばされたのだと思います。
また、日本軍の攻撃を受け墜落したB29の機体には、
アメリカ軍の兵士が体がバラバラになった状態で見つかり、
その肉片を日本軍の兵士が集めている光景も目にしました。
いつも生活していた場所に、突如として現れた多くの遺体。
この壮絶な戦争の記憶は、私の脳裏から決して消え去ることはありません。
熊本市 岡島さん(90代)
1945年、戦争の最中、日本が優勢であるという戦況を信じて耐え忍ぶ国民の上空を、
敵機が悠々と飛び交い、各地の都市への空襲が始まりました。
隈庄の町(現:熊本市南区城南町)には軍の飛行場があり、
私の家は軍の命令により特攻隊の宿泊所となっていました。
少年兵たちは日々明るく、規律正しい兵士ぶりを見せていましたが、
彼らが帰りの燃料を積んでいない飛行機に乗っていく現実に、
家族は陰で涙を流していました。
ある少年兵は、特攻隊として出撃する際、両親の写真を胸のポケットにしまい、
私たちの家の上を翼を左右に傾けて飛んでいきました。
「特攻隊なんか、なぜ志願するのだろう」と心の中では思いましたが、
そのようなまともな考え方は許されぬまま、大きな時代の流れの中に生きている時代でした。
一方、空襲は激しさを増していきました。
不気味な戦闘機の音がすると、何度も爆弾の音が響き渡りました。
夢中で学校の玄関前の防空壕に駆け込むと、反対側から先生も入ってきて、
「覚悟せんといかんばい。もうおしまいばい」とおっしゃいました。
私は「はい」と答え、「20歳までは生きられない。特攻隊の少年兵と同じだ」と
その時思ったことを覚えています。
その後のことは定かではありませんが、
燃え落ちた校舎を後に、家へ帰る時にはへなへなになっていました。
その最中、女性が消防士に両脇を抱えられながら通りかかり、
「燃えてしまった」とつぶやいていました。
また、顔の判別もつかないほど焼けた4、5人が泥人形のようにうずくまっていました。
そして、私の家も焼け落ち、一本の大きな木だけが立っていました。
その時、叔父が家のあった場所に来て、「泣くといかんぞ」と言いました。
その時私は、「泣くもんか、どうせ早かれ遅かれ戦争でみんな死ぬ」と思ったことを忘れることはありません。
熊本市 矢澤さん (90代)
私の父は体が小さかったため、周囲より遅れて1944年6月に戦争に召集されました。
当時私は10歳で、家には14歳の長兄から生後6ヶ月の乳飲み子まで7人の子どもと母が残されました。
我が家は幹線道路沿いにあったため、兵士たちが戦地へ向かうために熊本駅まで行進する
「ザッザッ」という足音を何度も聞いていました。
父が召集されて約2か月後のことです。窓ガラスに石が当たった音で家族が目を覚ますと、
母が窓を開けたところに紙に包まれた石があり、「今行くぞ」と父が書いた紙切れを見つけました。
それを見た母は、末の弟を背負い、走って熊本駅へ向かいました。
父の機転のおかげで、母は熊本駅で父に会うことができ、話をして見送ることができました。
その後、残された家族である母子8人と祖母は、
翌1945年7月の熊本大空襲まで、空襲の度に防空壕に避難しながら生活していました。
大空襲の際には、遠くに火の海を見ながら兄弟で反対方向へ走って逃げたことを覚えています。
我が家は完全に焼失し、数か月間親戚の家に疎開しました。
終戦後しばらくして家族で熊本に戻ってからは、復員する兵士の名前を読み上げる
ラジオ放送を聞きながら、父の帰りを待っていました。
しかし、数年後に父が亡くなったという知らせが届きました。
遺骨や遺品はなく、分かったのは終戦前に病で倒れ、
終戦直後の1945年9月に病死していたということだけでした。
父と母は、あの熊本駅での見送りが最後の別れになるとは互いに思っていなかったと思います。
終戦は1945年8月かもしれませんが、残された家族にとっての悲しみや苦労は
そこで終わりではなく、ずっと続いていたのだと思います。
益城町 倉本さん (60代)
今、私の家族が経験した戦時中の話をお伝えしたいと思います。
父は生前、空襲警報が鳴るたびに麦畑に身を隠し、
B29が上空を通過する音を聞きながら空を見上げていたと話していました。
敵機から見つからないように、麦の穂を体に被せていたそうです。
父がB29の飛行音を口で真似てくれたことがありますが、
実際にその音を聞いた者でなければ表現できないような、とても迫力のあるものでした。
私の母方の祖父と妻の祖父は、共に戦死しています。
祖母たちは戦争について多くを語ることはなく、残念ながらその多くを聞くことなく亡くなりました。
ただ、私が子どもの頃に祖母の家を訪ねた際、
祖父が出征後にもらった勲章を見せてくれたことがあります。
幼心にも、その勲章の美しさが強く印象に残っています。
また、妻の母方の実家近くの畑には、錆びた戦車が残されていたそうです。
戦争は本当に悲しい出来事で、多くの人々を不幸にします。
二度とこのような悲劇が起こってはならないと強く思います。
天草市 池田さん(70代)
私の母が生前語ってくれた戦争体験についてお伝えしたいと思います。
私の母と2人の兄は旧満州・奉天市で終戦を迎えました。
当時、父は軍に徴兵され、どこに行っているかもわからないままでした。
日本の敗戦と同時に、母は自宅に戻ると暴徒に襲われる危険があることを知り、
2人の兄を連れて工場跡地の難民収容所へ身を寄せたそうです。
しかし、収容所の環境は想像を絶するほど劣悪だったといいます。
雨が降れば汚物が寝床にまで流れ込み、多くの大人や子どもたちが赤痢に感染し、
幼い命が次々と失われていきました。
1946年8月、そのような生活が1年を過ぎた頃、当時5歳だった私の兄も赤痢に感染しました。
日に日に衰弱していく兄は、枕元にいる母に
「お母さん、僕、お骨になりそうだよ。死ぬのが怖いから一緒に来て」と語りかけ、
最期には「お母さん、きれいなお花がいっぱい咲いているから摘んであげるね」と、
花を手渡すような仕草をして「友達が呼んでいるから行くね」と言い、
静かに息を引き取ったそうです。
その1か月後、日本への引き揚げ船が満州に到着しました。
母は「兄があと少し頑張っていたら、日本の小学校に入学するという夢が叶ったのに」と、
深く嘆いていました。
母は遺骨を抱いて、日本に帰ると、毎日墓に通いました。
雨の日には傘を、寒い日には服を着せに行くなど、兄への深い愛情を捧げ続けていました。
それから1年後、シベリアに抑留されていた父が帰還し、
母はその時初めて心ゆくまで涙を流したと話していました。
私が生まれたのは、この出来事の後のことです。
上益城郡 高森さん(70代)
*手記の原文から抜粋し、一部書き換えています。
1945年8月7日、私は満州西北部の街ハイラルへの移動を命じられ、翌8日に到着しました。
しかし、その翌朝の午前4時には非常ラッパが鳴り響き、「ソ連軍が国境を突破しハイラル方面へ進攻中」との情報が流れました。
午前8時にはハイラル市街がソ連軍の空爆を受け始め、その爆音は耳をつんざくほどでした。
私たち約600人の部隊は、ハイラルから興安嶺の本隊との合流を目指し行軍を開始しました。
当初は国道を進む予定でしたが、敵の侵攻が早く、要所要所の集落にはすでに敵影があったため、
道なき道を進むしかありませんでした。
3日間の行軍で水も食料も尽き、毎朝朝露をすすり、落伍者が日ごとに増えていきました。
それでも先を急ぐため、手助けする余裕はなく、持ち歩く兵器の重さに耐えかねて
次々と捨てる状況でした。
終戦を知らされないまま、8月16日に目的地の前線基地にたどり着き、
初めてまともな夕食をとることができました。
翌朝7時、行軍を再開すると、激しい銃声が響き始め、上官から「散れ、散れ」と後方へ指示が出ました。
ふと見上げると、小高い丘の上から敵が一斉射撃で銃弾を浴びせてきました。
私たちに応戦する銃はなく、言葉では表現できないほど雨あられのように弾が降り注ぎました。
私は土をかぶり、頭を伏せていると、すぐ隣で仲間が悲鳴を上げて苦しんでいました。
身動き一つできず、ただ目を閉じて弾がやむのを祈るばかりでした。
40分から50分ほど経った頃でしょうか、敵は200メートルほど先まで迫っていました。
私は母に対し「俺は死にます」とつぶやきながら両手を挙げて立ち上がると、左腕を弾が貫通しました。
すぐにうつ伏せになり、すぐそばに小川があるのが見えました。
私は夢中で飛び込み、他の仲間2人と共に敵から見えない場所まで逃げ延びました。
それからは、毎日敵に見つからないよう歩き続けました。
ある時は、知らずにソ連軍の野営地の脇を通ってしまったこともありました。
見つかっていれば殺されていたでしょう。
そして8月28日の夕方、2人の男が馬を引いてこちらへ向かってきました。
1人が「早く馬に乗れ」と日本語で言ったので、私は「日本人か!?」と大声で叫んでしまいました。
相手は「お前たちはどこの兵隊で、どこから来た?」と尋ね、私は「もともと600人の部隊だったが、
途中敵に遭遇し銃で撃たれ、3人だけになってしまった」と伝えました。
すると1人が落ち着いた態度で、「実は日本は負けたのだ。8月15日、無条件で戦争は終わり、
天皇陛下から直接放送があった」と告げました。
この言葉に「アアア」と大きなため息が出ました。張り詰めていた体がぐったりとした感覚でした。
仲間の1人は「もう死んでもいいですよ」とつぶやきながら歩いていました。
生と死の分かれ道を辿りながら、私たちは生き抜いたのです。
その後、私たちはソ連軍に「日本へ帰る」と言われたにも関わらず、シベリアに抑留されました。
熊本市 足立さん(80代)
*手記を基に掲載
終戦までの1944年〜1945年にかけては、激しい空襲に遭いました。
アメリカ軍の戦闘機は緑川の上を低く飛んできては、機銃掃射を繰り返しました。
先日、菊池市泗水町を訪れた際、
1945年当時、私が国民学校4年生だった頃の記憶が蘇ってきました。
戦況が厳しさを増す中、私たちの日常は午前中の農作業と午後の川遊びに
費やされていました。
そのような状況下、農家の納屋の2階には兵士たちが通信機器を持ち込み、
アメリカ軍の上陸に備えている様子でした。
珍しい通信機器に興味津々の私は、毎日見せてもらいに行くのが
楽しみでなりませんでした。
特に、島根県出身のある兵士の方とは親しくしていただき、
色々な話を聞かせていただく中で、
「次の時代は君たちが担う。頑張ってほしい。」と励まされた時のことは、
子ども心ながらにも身が引き締まる思いがしたのを覚えています。
また、泗水町には特攻隊の中継基地であった「菊池飛行場」があり、
白い絹のマフラーを身につけた4〜5人の特攻隊員たちがトラックで移動中、
私たちに懸命に手を振る姿が、私の目には格好良く、強く印象に残りました。
しかしその時、学校の先輩から「あの人たちはニコニコしているけど、
やがて死なすとばい。」と聞かされた言葉も、今でも深く心に刻まれています。
それでも私は、トラックに乗って行く特攻隊員たちの後を追いかけ、手を振り続けました。
その道は、80年の時を経た今も変わらずそこにあります。
熊本市 緒方さん夫妻(90代と80代)
私たち夫婦は終戦の時、10歳と9歳。
2人共に今の城南町(熊本市)に住んでいました。
終戦までの1944年〜1945年にかけては、激しい空襲に遭いました。
アメリカ軍の戦闘時は緑川の上を低く飛んできては、機銃掃射を繰り返しました。
戦闘機から発射された弾は雨のように降り注ぎ、一旦上空を通過したかと思うと、
Uターンをしてきて再び攻撃をしてきます。執拗な攻撃でした。
防空壕に逃げても、銃撃される音が聞こえ続けていました。
恐らく、私たちが住む地区には「隈庄飛行場」があり
近くの竹林などに燃料や弾薬などが隠されていたため、
それを狙っていたのだろうと思います。
私たちの親の話では、農作業をしているときに空襲があると、
農作物の大きな葉っぱの下など、いろいろな場所に隠れながら
防空壕を目指して逃げていたといいます。
今思うと恐ろしい話ですが、子どもの頃の自分たちには、
まだ「怖い」という感覚がありませんでした。
終戦後、「隈庄飛行場」で軍用機とその格納庫が
数日間かけてアメリカ軍によって焼却処分されていたのを見た時、
子どもながらに「戦争に負けたから仕方がない」と
感じていたことを覚えています。
福岡市 石坂さん(60代)
*石坂さんは八代市出身 *手記を基に掲載
1943年5月。
陸軍から旧王子製紙(現王子製紙 及び現日本製紙の前身)に対し、
マニラ(フィリピン)に製紙工場開設の命令があった。
軍としては、現地で新聞用紙を製造し宣伝戦に協力せよというものだった。
当時、宣伝は重要な作戦で、軍としては紙は鉄砲玉と同じくらいの必需品で、
できるだけ早く紙の製造供給してもらいたいとの意向だったようだ。
元々、旧王子製紙では紙の製造は国内で行い、
現地へ持っていく方が良いとの考えだったが、
この軍の要請で一気にマニラ進出への舵を切ることになった。
マニラ工場建設には、建設操業要員として国内工場から希望者を募った結果
77人が集まり、その内の3割強となる27人が熊本県にあった八代工場(現日本製紙)と
坂本工場から選ばれた。
この建設操業要員は、1943年8月から翌年3月までの間に船で随時赴任していったが、
アメリカ軍の潜水艦による攻撃が活発化する中、魚雷攻撃の危険と背中合わせの
命がけの渡航となった。
また、計画を難航させたのが徴兵による人手不足に加え、
アメリカ軍の潜水艦攻撃による輸送船不足が重なり、
機材がマニラにスムーズに届かなくなっていた。
さらに、1944年9月には、機材を載せた輸送船がマニラ港に入港したが、
アメリカ軍の空母艦載爆撃機によって空襲を受け湾にいた船のほとんどが沈没し、
建設機材の半分が海に沈んだ。
この状況に、マニラ工場の所長は建設操業要員を前に
「敵の攻撃で、機材の半分以上が沈められ、日本から機材を取り寄せる望みもない。
また、敵が進攻してくる日も遠くない。
この地で死を覚悟せざるを得ない状況である。」と話し、全員に緊張が走った。
その上で、所長は「絶望的な状況だが、死ぬ前に紙を作ろう何とかやり抜こう」
と提案し一同が同意した。
しかし、その建設は敵の空襲と上陸が迫りくる中で始まった。
紙の製造開始目標は3か月後の1944年12月20日。
ありあわせの機械部品をやり繰りしながら、昼夜を問わない作業を進めた。
12月19日には、陸軍から業務中止命令が出されたが、
紙の製造までもう一歩のところまできていたことなどから、
“紙を作る”計画は続行された。
その結果、目標だった12月20日には間に合わなかったが、
4日後の、24日午後4時に紙の製造が可能となり、
マニラで“紙を作る”という願いは達成された。
この日は建設操業要員77人全員で祝賀会を開き、
各々がかくし芸を披露する中、ブタ1頭を食膳に、ラム酒を楽しむなど
過酷な日々の中で貴重な楽しいひと時となった。
しかしその後、赤紙令状が旧王子製紙に一括して送られてきて、
翌年の1945年1月7日には全員が入隊。
それと合わせるかのように、アメリカ軍もルソン島(フィリピン)に進攻してきた。
建設操業要員の入隊後の状況は分かっていないが、
77人のほとんどが戦死し、日本に帰還できたのは5人のみだった。
72人がいつどこで戦死したのかもわからぬままだ。
戦死した一人には、私の祖父もいる。
熊本市 伊藤さん(70代)
*手記を基に掲載
2020年に亡くなった1919年生まれの母は、戦時中、多くの人がそうであったように、
自身を「軍国少女」と語っていました。
母は陸軍の要請により、1938年10月から1943年までの間、
北朝鮮窒素永安病院、山西省太原兵站病院、そして江蘇省鎮江陸軍病院
(病院名はいずれも母の手記に記されていたまま)に看護師として勤務いたしました。
昼間の勤務と三日ごとの夜勤という大変な日々だったようですが、
若かった母は、国のために働くことに誇りを持ち、精一杯努めていたと話していました。
山西省太原の病院の中庭には多くのリラの木が植えられていて、
長く厳しい冬を越え、4月の終わり頃になると、いっせいに薄紫の香りの高い花が
咲き始めたそうです。
傷病兵たちの枕元にその花を飾り、慰めていたことなど、
当時の鮮烈な印象は生涯忘れられない母の原風景となっていたようです。
ある傷病兵の方からは、退院後に短歌や写真が送られてきて、
手紙のやり取りもあったそうですが、シベリアへ出兵するという知らせを最後に、
連絡が途絶えてしまったと聞いています。
おそらく、そのまま戦地で亡くなられたのでしょう。
終戦後、母は趣味で短歌を嗜んでおり、戦争時代の思い出を詠んだ歌も残っています。
『春おそき戦野の朝けリラ咲けば
明日なき傷兵の枕辺に活く
カルテ見れば未だうら若き傷兵なりき
老いの如くに声もかすれて
看取りせし かの日ははるかわが庭に
リラ咲き匂へば 恋し北志那』
青春時代を中国の戦地で過ごした母にとって、
それらの場所は思い出深いものだったようですが、
「あの時の病院は、中国人を追い出して使っていたのかなぁ。」と、
ふと寂しそうに語っていました。
熊本市 石坂さん(90代)
1945年春、私が9歳の時の出来事です。
あの日は、どこまでも広がるような美しい青空でした。
当時、私は熊本市の手取神社の近くに住んでいましたが、
突然、「ブルンブルン」という飛行機の音が近づいてきたかと思うと、
旧日本軍の飛行機が信じられないほど家のすぐ近くまで降りてきたのです。
その時、家にいた母と私が空を見上げると、
飛行機の操縦席には見慣れた顔がありました。
それは、いつも私と遊んでくれていた隣のお兄さんだったのです。
白いマフラーを身につけ、満面の笑みで私たちに手を振ってくれました。
一度だけでなく、飛行機は上空を旋回し、再び私たちの前で手を振ってくれた後、
まるで別れを告げるかのように主翼を上下に揺らしながら、
西の空へと飛び去っていきました。
幼い私は、お兄さんの凛々しい姿を見て、「強くて偉い人だ」と憧れましたが、
母がその飛行機をじっと見つめ、涙を流しているのを見て、
なぜ泣いているのだろうと不思議に思ったのを今でも鮮明に覚えています。
数年後、あの時手を振ってくれたお兄さんが、特攻隊員として
戦死したことを知りました。
当時の私には、優しかったお兄さんがそのような運命を辿るとは
想像もしていませんでした。
これまで誰にも話したことのない記憶ですが、
この出来事を語り継いでいく必要があると感じ、今回お話しました。
熊本市 伊藤さん(70代)
*手記を基に掲載
私の両親は、戦争という激動の時代を青春時代に過ごしました。
1912年生まれの父は生前、折に触れて戦争の体験を私に語ってくれましたが、
今回はその貴重な記憶を文章にしたいと思います。
父は普段、戦争の話を積極的にすることはありませんでしたが、
お酒を飲むと、その壮絶な体験を語ってくれました。
二度の徴兵を受け、最初は北方の地へ、二度目は南方のフィリピンへ。
そこで終戦を迎えたそうです。
戦時中、上官から敵か現地人か分かりませんが、殺害するよう命令が出そうになった際、
「まっぴら御免だ」と逃げ出したことがあったと聞いています。
父は、直接手を下して人を殺めることはなかったと話していました。
しかし、フィリピンでのアメリカ軍との激しい攻防は、想像を絶するものだったようです。
雨あられと降り注ぐ銃弾の中、ふと気づくとすぐ隣にいた仲間が蜂の巣のように
銃弾を浴びて亡くなっていた、と。
また、積み重なった多くの遺体を乗り越えながら進んだこともあったそうです。
ある時、父はこんな話もしてくれました。
小隊を率いてくぼ地に潜んでいた時、「なおれ、なおれ」という声が
どこからともなく聞こえてきたというのです。
「なおれ」とは、私たちの方言で「場所を移せ」という意味です。
不思議に思いながらも、その声に従って移動した直後、
まさに元の場所へ激しい集中砲火があったそうです。
九死に一生を得た瞬間でした。
父は、いつも自分の無事を祈ってくれていた母親が
助けてくれたのだろうと語っていました。
戦況が悪化するにつれて食料は尽き、皆が飢えに苦しみ、
あらゆるものを口にしたといいます。
時には、蛇を捕まえて焼いて食べたこともあったそうです。
そうして森の中を彷徨いながら、なんとか生き延びていたのですが、
もう限界だと思った頃、アメリカ軍に捕らえられました。
もう少し遅れていたら、命を落としていただろうと父は言っていました。
しばらく捕虜収容所での生活を送った後、父は無事に帰国することができました。
しかし、故郷に戻った時、まだ若かった父の髪は真っ白になっていたといいます。
父の生還は、本当に奇跡としか言いようがありません。
父は戦争体験を語ると、最後に、いつもこう言っていました。
「あんな巨大な国と、ばかな戦争をした。戦争なんか、絶対にしてはいかん。」
玉名郡 西田さん(50代)
1931年生まれの私の母から聞いた話です。
母が小学校に通っていた頃は、モンペに防空頭巾をかぶり、
救急袋とランドセルを肩にかけて登校するのが日常の姿だったそうです。
母の父親の仕事の関係で、小学校6年生の頃には
長崎県の佐世保で暮らすことになりました。
進学のため夜学にも通っていた母は、空襲に備えて街の各家庭の電灯が黒い布で覆われ、
光が漏れないようにしていたため、夜道は真っ暗でとても心細かったようです。
そんな中でも、楽しい思い出もあったそうです。
それは、海軍の指導で行われた手旗信号の検定に一生懸命取り組んだことでした。
女学校に入学する頃には、戦争が激しくなり、
母も軍需工場へ動員されるようになりました。
敵機は昼夜を問わず襲来するようになり、けたたましいサイレンの音が鳴り響くと、
人々は一目散に防空壕へ駆け込んだそうです。
そして1945年6月28日。
いつものように床についていると、突然家の中が昼間のように明るくなりました。
外を見ると、高い空に照明弾が落とされ、
街全体が真昼のように明るく照らされていたのです。
その後、街はみるみるうちに火の海となりました。
これが佐世保大空襲です。
逃げ場を失い右往左往する人々を見ながら、空から落ちてくる焼夷弾を避け、
山にある大きな壕を目指して必死に走りました。
道の両側の家々が燃え盛る中での避難は、体を熱く焼き、
防火用水のタンクの中に何度も飛び込んだそうです。
やっと2000人ほどが避難できる防空壕にたどり着くと、
中では大勢の大人たちが次々と子供の名前を叫び、我を忘れて探し回っていました。
恐ろしい一夜が明け、戦火が収まると、
自分の体のあちこちに火傷を負い、着ていた洋服も焼け焦げているのを見て、
涙も言葉も出なかったことを覚えていると母は語っていました。
そのような状況下でも、多くの人々は必ず勝利すると最後まで信じて
頑張っていましたが、8月15日に終戦を迎えました。
勝利を夢見て、つらいことや苦しいことを我慢して頑張ったのは何だったのかと
思った反面、毎日毎日おびえて暮らす必要がなくなったことに気づいたそうです。
戦争を知らない皆様に、戦争は二度と起こしてはならないということを
どうか忘れないでほしいと、母は願っています。
熊本市 山本さん(60代)天草市 石原さん(50代)
天草市栖本町では、今も午後5時になると、どこからともなく鐘の音が聞こえてきます。
その音は、不知火海を見下ろす高台に佇む円性寺という寺から響いてくるものです。
しかし、この鐘の音は、1940年代に一度途絶えてしまいます。
太平洋戦争開戦が近づく中、政府が武器の原料とするため、全国の寺院に対し
梵鐘などの金属類の供出を命じた「金属類回収令」によるものでした。
円性寺も例外ではなく、長年地域の人々に親しまれてきた時の音を
手放すことになったのです。
終戦後、全国的に梵鐘を再建しようという動きが起こります。
その一つに、戦時中に貨物船や軍艦なども建造していた日立造船(現在のカナデビア)
がありました。
カナデビアに残る当時の資料には、
「何百年間も平和を願ってきた梵鐘が鋳潰され軍需製品となり、
それがまた梵鐘に戻ることは仏教でいう輪廻を物語るものだ」と記されています。
終戦とともに軍需製品から産業部門へと転換を図っていた日立造船では、
航空母艦「ほうしょう」や「かつらぎ」が解体され、
その合金であるスクラップが梵鐘の材料の一部として使われることになったのです。
この日立造船の取り組みに共鳴したのが円性寺でした。
現在の住職である石原史博さん(55)によると、
1948年、奈良の法然寺で住職をしていた祖父が天草に戻るとすぐに
梵鐘再建のための寄付を募りました。
石原さんは、祖父のこの迅速な行動は、法然寺で既に
日立造船と共に梵鐘の再建に携わっていた経験から、
人の心に響く鐘の音の大切さを深く認識していたからではないかと考えています。
寄付は地域の人たちを中心に約1000人から集まり、
祖父が天草に戻ってから約2年後の1950年、ついに梵鐘は再建されました。
これだけの人から寄付が集まった理由を石原さんは、
当時、多くの人が戦争で子どもや親を亡くしていたのではないかとし、
そのような状況の中で「鐘の音が聞こえることで供養となり、みんなが救われると
思ったのではないか」と、その当時の人たちの思いを推し量ります。
平和への願いが込められた円性寺の鐘は、
今も変わらず、静かに時を告げ続けています。
熊本市 米村さん(60代)
去年93歳で亡くなった母は、熊本港(熊本市)近くで生まれ育ち、
10人以上の兄妹がいました。
私が小学生の頃、母が戦争について語ってくれたのは、
1945年の熊本大空襲のことでした。
「あの日の夜空の明るさは、例えようがないくらい美しかった」と。
母は戦争の恐ろしさではなく、空襲の光景を「美しかった」という表現で
私に伝えたのです。
恐らく空襲の被害の大きさを伝えたかったのだと思います。
しかし、幼かった私には「その空襲で多くの人が亡くなったのに」と、
複雑な気持ちになったのを覚えています。
一方で、母が住んでいた地域では空襲の被害は少なかったそうですが、
一番下の妹が3歳の時に、不発弾が爆発して亡くなったと聞きました。
当時、私もまだ子どもで、その話を真剣に聞くことができませんでした。
しかし、私が親となり子を授かり、長男が生後間もなく病死し、
さらに当時20歳だった次女が事件で命を奪われたことで、
母が妹を亡くした時の苦しみが、ようやく理解できた気がいたしました。
今振り返ると、母に対してもう少し思いやりを持つべきだったと痛感しています。
妹を失った時の母の苦しみは、想像を絶するものだったでしょう。
戦争では、熊本でも多くの人たちが亡くなりました。
戦争は、全ての人を不幸にするものだと思います。
今の若い世代の方々には、かつて戦争という時代があったことを
決して忘れないでほしいと願っています。
何よりも、命を大切にしてほしいと心から願っております。
熊本市 甲斐さん(70代)
1916年生まれの父が書き留めていた手記です。
以下、手記から抜粋した内容を記載します。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
大東亜戦争(太平洋戦争)について
1941年11月、次の作戦のため台湾で待機していました。
これまでの支那戦線とは異なり、機械化が進んでいました。
我々は最強の海兵部隊として、敵前上陸を専門とする部隊でした。
高雄に集結し、待機中に戦闘準備を整え、その後、海上待機となりました。
12月5日には出陣式が行われ、祖国に最後の別れを告げました。
12月7日、輸送船団は準備が完了した様子で、海上に堂々とした姿を現していました。
12月8日、大本営から発表がありました。
「長きにわたる経済封鎖、あるいは対支戦における米英の対支支援などから、
米英との戦闘開始」とのことでした。
12月17日、馬公(台湾)を秘かに出港し、60隻以上の大輸送船団と
海軍の護衛艦、重巡洋艦、駆逐艦、飛行隊が堂々とフィリピンへと進撃しました。
シソン(フィリピン)付近にて進撃中、米軍の貨物輸送車を鹵獲(ろかく)しました。
その際、不運にも我が海軍の爆撃機が上空に現れ、鹵獲した輸送車を
敵の退却と誤認し、三発の爆弾を投下しました。
爆弾が投下されるのを確認した我々は、咄嗟に側溝に身を伏せましたが、
直後に凄まじい爆発が起こりました。
この爆発により、多くの仲間が犠牲となり、現場は一瞬にして修羅と化しました。
痛恨の極みであります。
その後、間もなくして、同じ海軍爆撃機が再び現れ、上空を旋回しておりました。
恐らくは、誤爆を詫びにきたものと思われます。
その後、爆撃機は山陰へと消えていきました。
後に聞いた話によりますと、その爆撃機の操縦士は、今回の事態の責任を取り、
自爆されたとのことです。
さて、1942年2月、我々はジャワ島攻略へと向かいました。
40隻余りの船団は、軍艦「足柄」「羽黒」といった重巡洋艦などに護衛され、
南へと進撃を開始し、無事に赤道を通過することができました。
そして、スラバヤ沖海戦において、我が海軍は疾風の如く前進いたしました。
南海の深夜に砲火が閃き、夜が明けて輸送船から見ると、
敵の海軍兵士が海面を漂っておりました。
どうやら、我が海軍によってイギリス・オランダ東洋艦隊は全滅したようです。
3月には、ジャワ中部のクラガンに敵前上陸を果たしました。
敵は抵抗のため多くの兵力を配備しておりましたが、幸いにも友軍の被害は
僅少であったと聞き、安堵しました。
3月8日、我が軍は満を持しての総攻撃を開始いたしました。
さらに、チモール島への進撃も開始され、我が部隊はマレー半島へ転出のため、
バタビヤ港を出港し、4月26日にシンガポールへ入港しました。
部隊は上陸専門の任務についていましたので、
アメリカ本土への上陸作戦が計画されているのではないかという話も出て、
毎晩厳しい警備が続く日々でした。
そのような生活が続く中、どこからともなく終戦の知らせが届きました。
祖国のため、命の敵に勝つまではと強く抱いていた気力が、
まるで泡のように消え去り、力が抜けて、とめどなく涙が流れました。
熊本市 竹原さん(60代)
実家から戦時中の写真などと一緒に、
ビルマでの戦いとみられる手記が見つかりました。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
1944年の暮れに第31対空無線隊への転属を命じられ、
翌年1月に重爆撃機に搭乗いたしました。
昭南(シンガポール)、金辺(プノンペン)などの各飛行場では、
熊本陸軍少年飛行兵学校(熊校)時代の少年飛行兵たちが下士官となっていて、
彼らは私に「ビルマへ行くことは生き地獄であり、死に行くことである」と語りました。
また、食糧事情の悪さや、制空権が完全に敵の掌握下にあるという厳しい状況も聞かされました。
3月、ビルマへ向かう道中は、昼間は密林に身を潜め、夜は屋根のない貨車に乗り、
時速5キロという速度での寂しくも悲しい鉄道移動でした。
その頃、第31対空無線隊はビルマから泰国(タイ)へ転進していて、
やがて5月にはさらに金辺(プノンペン)へと移動しました。
金辺(プノンペン)では、地上作戦の様相を呈しているさなか、
8月に天皇陛下の玉音放送があり、日本軍は無条件降伏しました。
その時、私は大声をあげて泣きました。
当時の金辺(プノンペン)での悲しみと痛みは、
今も決して忘れることはできません。
終戦後、先の見えない捕虜としての生活が始まり、
悲しみと苦しみに満ちた日々を送ることとなりました。
そのような耐え難い生活の中、武器解除・降伏式が執り行われ、
英国の将官の列席のもとに終了しました。
熊本市 村川さん(70代)
1922年生まれの父の戦時中の経験を綴った手記です。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
太平洋戦争に突入し、国民総戦闘員と云う。
1943年4月10日、現役兵として西部16部隊第1機関銃中隊に入隊。
同期の初年兵は総勢24人で、皆一目見ただけで屈強な体格の者ばかり。
私のような商家出身の者が、彼らと対等に厳しい演習や訓練に耐えることが
できるのだろうかと、不安が頭をよぎった。
入隊初日の昼食は赤飯で祝われ、午後は健康診断に軍隊用語の説明となった。
入隊して軍隊の規律並みに先輩後輩の厳しさを肌で感じ、
軍規という緊張感と常に隣り合わせの中で、軍隊生活を身をもって体験した。
この先は、困難な道のりが続くであろうと覚悟していて、
力の限り精進するのみと決意を新たにした。
親兄弟をはじめ、親戚の方々には「今度会う日は、白木の箱だろう」と覚悟を伝え、
家を後にしていた。今はただ、軍人としての本分を尽くすことだけを心に誓っている。
心身の猛鍛錬は覚悟の上だったが、演習の過酷さ、喉が焼けるように辛い思いをしたが、
なんとか人並みに気持ちを奮い立たせ、明日への希望として耐え忍ぶ日々だった。
そして、忘れもしない7月18日の夜。
点呼の前に、初年兵係の方から私たち全員に早めに集まるよう指示があった。
班長も普段とは様子が異なり、顔色も悪く、何か言い出しにくいような雰囲気だった。
そのような状況の中、班長の口から語られたのは、戦友との別れについて。
現在、ブーゲンビル島で苦戦を強いられている部隊への補充要員として
派遣される兵士たちの氏名が発表された。
名前が呼ばれたのは、初年兵24人のうち14人。
私の名前は呼ばれなかった。
入隊から100日ほどしか経っていなかったが、苦楽を共に助け合ってきた戦友。
その別れは、言葉では言い尽くせないほど辛いものだった。
また、家族との連絡が禁じられていたため、ある戦友は私に家族への連絡を託してきた。
またある者は涙ながらに「自分には母親が1人しかいない。ほんの少しでもいいから、
母親に会うことはできないだろうか」と訴えていた。
そして、7月23日の夜10時。
戦地へ向かう兵士たちの壮行会が行われた。
真新しい野戦服に身を包み、装備品を手に持った戦友たちは、言葉も出ない様子に見えた。
一応の挨拶が終わると、中隊長を先頭に東門に向かいその後、列車に乗車した。
先頭車両の方から笛が連続3回聞こえたかと思うと、列車は汽笛も鳴らさず動き始め、
列車は黒い影となり、熊本駅方面に消えていった。
熊本市 村川さん(70代)
1922年生まれの父の戦時中の経験を綴った手記です。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
1945年7月1日の真夜中。
熊本師団司令部(熊本市)にいた時のことだった。
突然、警戒警報のサイレンが鳴り響き、すぐに空襲警報にサイレンの音が変わった。
その2〜3分後には熊本駅方面から最初の爆撃機が飛来し、
低空飛行のまま立田山(熊本市)の方向に進んで行った。
立田山には仮の兵舎があり、それを狙ったと思われる。
立田山の方で、2〜3か所から火柱が上がったかと思うと、次の爆撃機が飛来。
その後も2〜3分間隔で爆撃機が次々と飛来し、上空から照明弾を落下し
熊本市内は、満月の夜のように明るくなり、恐怖を忘れあ然となった。
その後も、爆撃機は目前を低空で通り過ぎ白川沿いを北上し、
水前寺、大江方面は火炎と黒煙に包まれた。
当時、在営部隊はほとんど各地に疎開していて、対空射撃はできず、
敵機の1時間以上に及ぶ無差別攻撃で、付近一帯は焼きつくされた。
翌日、坪井川沿いに広町から藤崎宮の鳥居をくぐると、
焼け跡はまだ生々しく、火が消えずにくすぶっている建物がたくさんあった。
そんな中、一番困ったのは、なんとも表現しがたい焼夷弾の匂いであった。
その後、橋から白川を見ると、焼夷弾の殻が無数に散乱し、
中には2〜30キロくらいの小爆弾も見えた。
アメリカ軍は橋を標的にしたのかもしれないと思った。
あの時の記憶はなくならない。
熊本市 秦さん(80代)
1910年生まれの私の父が、1987年頃に孫へ戦争体験を語った際の
録音記録をまとめたものです。
父は1941年9月に2度目の召集令状を受け、小笠原(東京都)へ向かいました。
その3か月後には太平洋戦争が始まり、隊員たちは「いつアメリカ軍が攻めてくるのか」と
不安な日々を送っていました。
翌1942年には、小笠原から北海道へ移動することになりました。
これは「北からアメリカ軍が攻撃してくる可能性に備えよ」という命令によるものでした。
父が配置されたのは、千島列島の東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)でした。
敵の攻撃を食い止めることを任務とし、3年余りが過ぎた1945年8月15日、終戦を迎えます。
その時、父は戦争に負けたことは悔しかったものの、やっと故郷に帰れると安堵したそうです。
しかし、終戦からわずか3日後の8月18日午前0時、突如として激しい砲撃が始まりました。
旧ソ連軍が上陸してきたのです。耳をつんざくような大砲の破裂音。
不意を突かれた攻撃でしたが、元々アメリカ軍の攻撃に備えて築いていた陣地があったため、
応戦の準備はできていました。
私たちは「勝たないと日本に帰れない」という強い思いで応戦し、戦いを優勢に進めましたが、
日本がすでに世界に向けて敗戦を表明していたため、戦争を続けることはできず、
降伏という決断に至りました。
旧ソ連軍に武器を没収され、父は1か月間占守島に留め置かれました。
そして1945年9月12日、ロシア軍の船に乗せられ、
「これでやっと帰れる」と思ったのも束の間、船は故郷とは反対の北へ北へと進んで行きました。
船が到着したのは、一面真っ白な雪に覆われたシベリアでした。
上陸後、山奥へ連行され、過酷な強制労働の日々が始まりました。
港から約80キロ離れた山の上に設けられた捕虜収容所では、
旧ソ連軍から「お前たちはソ連の言うとおりに働くんだ」と命じられたそうです。
1年、 また1年と、重労働が課せられました。
ある時、「峠の道路の除雪をせよ」という命令を受け、父を含む30人ほどが
現場に連れて行かれましたが、猛烈な吹雪となり、除雪作業は全く捗りませんでした。
命令された仕事もできず、旧ソ連軍が迎えに来る見込みもないと考えた一同は、
雪の中を低い方へ低い方へと一列になって歩き始めました。
途中で偶然見つけた小さな小屋には1人のおじいさんが住んでいて、
凍り付いた豆のようなものを分けてもらい、飢えをしのぎました。
そして、そこからなんとか捕虜管理事務所にたどり着いた時、
思いがけない出会いが父の抑留生活に変化をもたらしました。
管理事務所で通訳をしていた人物が、なんと日本で父のことを知っていたというのです。
その後、その方から食べ物を分けてもらうなど、様々な助けを受け、
父はシベリアからモスクワへと移送されることになりました。
4年間の旧ソ連での生活を終え、父はようやく日本への帰国を果たすことができたのです。
菊池郡 中山さん(40代)
亡き祖母から聞いた、忘れられない光景についてお伝えします。
1929年生まれの祖母は、1945年8月9日当時16歳でした。
その日、祖母は島原(長崎県)の対岸に位置する宇土市(宇土半島)の小池という集落の
干潟に出ていたそうです。
その時、対岸から強烈な閃光が走ったかと思うと、間もなく地を震わせるような
「ど〜んっ」という轟音が全身を揺るがしたといいます。
それと同時に、空はまるで、あらゆる色の絵の具を溶いたように色鮮やかに染まり、
その光に照らされた空の様子を、祖母は「見たことない美しさだった」と語っていました。
その後、その轟音と空の変化が原爆によるものだったと知った祖母は、
あの時目にした光景を、奪われた多くの御霊が描き出した光と空だったのだろうと感じたそうです。
そして、その出来事を決して繰り返してはならない、決して忘れてはならないと、
幼い私に強く語って聞かせてくれました。
私がこの話を聞いたのは、今から約30年前。
祖母と一緒にいる際、テレビで戦争に関する話題が出るたびに、
自身の経験を様々な角度から話してくれました。
多くの話を聞きましたが、今回お伝えした光景についての話が、
今でも私の心に最も深く、鮮烈に焼き付いています。
阿蘇市 坂梨さん(90代)
戦争を体験した者として、最も記憶に残っているのは、阿蘇上空での空中戦です。
1945年、アメリカ軍による日本本土攻撃が始まり、
阿蘇地域でも緊張した日々が続いていました。
当時、私は青年学校に通う傍ら、防空監視所(宮地)に勤務していました。
私が監視当番だった5月5日午前7時半過ぎのことです。
東の方から爆音が聞こえ、眼鏡で空を覗くと小型機1機が見えました。
すぐに本部に「小型機一機、高度5000メートル、敵味方不明、東から西に通過」
と報告した瞬間、周囲には空襲警報が鳴り響きました。
すると、遥か大観峰上空に銀色の翼を連ねたB29爆撃機が12機飛来してきました。
私がその光景に恐怖を感じ、あ然としていると、東南の方向から日本軍戦闘機3機が現れ、
激しい空中戦が始まったのです。
日本軍機はB29の編隊に対し、上下左右から果敢に攻撃を仕掛けました。
それに対しB29も応戦。
日本軍機1機が被弾し、煙を上げながらも、そのままB29に体当たりをしたのです。
その瞬間、日本軍機は火だるまとなり、まるで花が散るように落下していきました。
そのまま墜落するのかと思っていたら、
機体から煙を吹き出しながらも、日本軍機がB29に体当たりをしたのです。
その時、火を噴いたB29は高度を下げながら東の方へ飛び去り、
数個の落下傘が確認できました。
わずか2分足らずの空での交戦でしたが、まるで長い時間が過ぎたように感じられました。
その後、消防団は落下したアメリカ兵の確保に向かい、
数名が捕虜となり、複数の遺体も発見されました。
それから3か月間、地域では空襲警報とグラマン戦闘機の奇襲に
おびえる日々が続きましたが、8月15日に終戦を迎えました。
現在、B29が墜落した地には、
兵士を追悼する慰霊碑「殉空之碑」が建立されています。
熊本市 森さん(70代)
亡くなった父は、1920年生まれで、陸軍第6師団13連隊の少尉として、
フィリピンのネグロス島で終戦を迎えました。
しかし、その父はB級戦犯として絞首刑を言い渡され、
巣鴨プリズン(東京)に収監されましたが、後に恩赦より出所しました。(*詳細な出所時期不明)
なぜB級戦犯となったのか、父は私に多くを語りませんでしたが、
「フィリピンでは、軍服を着ず動いていて、情報収集にあたっていた。」
という話を聞いたことがあります。
また、絞首刑の判決を受けた時の思いについては、
「部下を何人も死なせてしまった。そもそも生きて日本に帰れるとは思っていなかった。
絞首刑の判決は仕方がない。」とも語っていました。
父が巣鴨プリズンで記した「獄中記」が残っています。
【以下、獄中記】*ほぼ原文のまま
(*自身の刑が執行された際に、遺品として家族へ渡そうとしたもの)
この帳面は、死刑の宣告を受けてから殺されるまでの
独房生活中、その日その日、頭に浮かんだものを、その都度書いたものである。
寂として声もない一間半の独房、四面と天井は大きな鉄の格子。床はコンクリート。
訪ねて来る人もなく、ただ一人座ってこの帳面に向かっている等の姿と環境を
頭に浮かべて静かにこの帳面を読んでください。
※獄中記は次のエピソード「巣鴨プリズン 獄中で書かれた日記」に続きます。
熊本市 森さん(70代)
B級戦犯として、絞首刑の判決を受け収監された父の日記
【以下、獄中記】*一部抜粋ほぼ原文のまま
鉄格子の隅にせっせと働くクモの動きを眺めて時を過ごす。
見事にはり廻されたクモの巣に、あわれにも身の自由を失った小さな虫が一つ。
早、観念したのか総てを天に任せて吹く風にゆらゆら揺れている。
間もなく、この小さい虫もあのクモによって殺されてしまうだろう。
ここにも一つの虐殺が行われようとしている。
あの虫も俺と同じく理由なくして、殺されてしまうのであろう。
だが小虫よ嘆くな。お前を殺したやつもいずれ君の情を追ってあの世へ行くのだ。
とうとう小虫は死んでしまった。
そして俺は、その可哀そうな小虫の仇をうつべく、
あのクモをつかんで、コンクリートの床に力一杯たたきつけた。
間もなくそのクモは死んだ。今度は俺の番だ・・・
上益城郡 堀さん(50代)
40年ほど前。
小学校の修学旅行で長崎県に行った。
平和公園では、原爆の被害にあった瓦を探すことに。
植込みを探すと、熱で溶けてできた水泡の固まったような跡がある瓦が見つかった。
今思えば、戦争の悲惨さを実感した瞬間だったように思う。
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 前田さん(40代)
中国に出征したことがある祖父(1919年生まれ)は、幼少期の私の枕元で、
太平洋戦争当時の話を聞かせてくれることがありました。
なかでも特に強く印象に残っているのは、戦地で出会った中国人の孤児を引き取り、
従軍中に面倒をみていたという話です。
食事はもちろん移動の際は子どもを軍馬に乗せ、自身はできるだけ徒歩で行軍したと
聞いた記憶があります。
多くの戦友を失いながらも、辛うじて生きながらえ終戦を迎えたそうです。
引揚げの際、その少年は祖父に対し、「日本に一緒につれていってほしい」と
泣いて懇願したそうです。
戦後40〜50年ほど経過したころ祖父は「その少年はどうしているだろうか、
生きていれば今◯◯歳ぐらいだろう、会えるものなら会いたい。」と話すこともありました。
その当時、私はただただ話に聞き入るばかりでしたが、歳を重ねたいま、改めて祖父の話を
思い出すことが多くなっているのは、戦争を風化させるのを許さない世情となっているから
ではないかと感じています。
「戦争だけは絶対にしたらいかん」という誰にともなく発する祖父の言葉を、
何度も枕元で聞きました。
熊本市 徳永さん(80代)
父は私が2歳の時、出征先の台湾で亡くなったそうです。
1945年1月9日のことだったそうだと聞いています。
それから80年。
父が出征した時、私は生後6か月。
私は父の顔も、声も、肌のぬくもりも分からないが、一度は父が亡くなった場所を訪れ、
追悼したいと思い続け、その思いがやっと叶いました。
今年1月、姉と共に台湾・高雄を訪れたのです。
父の部隊は第96駆潜特務艇。
資料によると高雄沖36キロの地点で、空から攻撃を受け、沈没したようです。
多くの戦友と共に海の底に沈んだ父。
冷たい海に沈み、遺骨、遺品も回収されず、無念だったと思います。
父の死から80年。
36キロ先に父がいると思うとうれしかった。
この体験を、子や孫に伝え、若い世代に引き継ぐことが私たちの責務だと思っています。
熊本市 甲斐さん(80代)
1945年。当時2歳の頃の記憶です。
飛行機の音がしたら、防空壕へ逃げる。
これを繰り返していました。
防空壕までは、家から歩いて約5分。
母に手を引かれて行っていました。
今でも明確に覚えているのは、グラマン戦闘機と思われる飛行機の音です。
今の小型機よりも甲高い音だったと記憶しています。
防空壕の中では、母が玄米を一升瓶に入れて、竹でついて、
精米していたことも覚えています。
当時2歳でしたが、鮮明に記憶が残っています。
また、自宅では、夜になると空襲の目標にならないようにと、
電灯の笠の部分に黒い布を被せ、光が外にもれないようにしていたことも覚えています。
終戦後、中国から引き揚げてきた父からは、戦争の話を聞くことはありませんでした。
恐らく、戦地ではいろいろなことがあり、話したくなかったのだろうと思います。
最後に、日中戦争中(1937年)に熊本県と熊本市の名前で
配布されたとみられる資料も提供します。
B5サイズほどの紙には見出しに「納税報国」「期限確守」と
書かれていて、文章の中には、
帝国臣民の重き務めが3つある。
一に兵役
二に納税
三に学びの庭六年
そして「銃後の赤心」とも記されています。
宇城市 本田さん(90代)
*手記を基に掲載
戦後、日本の多くの若者が遠く離れた異国の地で過酷な運命を背負いました。
私もその一人です。
戦後 私はシベリアに抑留され、極寒の地で過酷な労働を強いられ、
飢えや寒さと闘いました。
その過酷さから、多くの仲間たちがこの世を去りました。
一方で、人の温かさにも触れました。
監視のない農場で、地元の人たちから食料を分けてもらいました。
これは、極限の状況でも人と人が助け合えることを教えてくれました。
今 私は、母国 日本に帰ることなく、シベリアの地で亡くなった
戦友たちの無念を受け止め、彼らの声を未来へつなぐことが生きる意味となっています。
シベリア抑留の歴史は、戦争がもたらした現実です。
これを、私たちが語り継いでいくべきだと思っています。
私が伝えたいのは、「戦争が奪ったものの大きさ」と
「どのような状況でも人の温かさは失われない」こと、
そして「二度と悲劇を繰り返さないように、平和を守る」ということです。
熊本市 平野さん(70代)
私が両親から聞いた話です。
1926年生まれの父は、18歳ごろから中国・青島へ行き、
軍服を作る工場で働いていました。
その時、召集令状となる「赤紙」が父に届きましたが、
父は工場で製造の指導者的立場だったことが影響したのか、
最終的には入隊が免除(猶予)されたということです。
父が入隊予定だった部隊は、戦後シベリアに連れていかれたと聞きました。
あの時、父が入隊しシベリアに行っていたら、父は日本に帰ることができず、
私たち兄妹もこの世に生まれていなかったかもしれないと思うことがあります。
一方、母は三角町で生まれ育ちました。
戦時中は、空襲の度に防空壕に逃げ込んでいましたが、避難している際、
戦闘機から発射された機関銃の弾が防空壕の扉を貫通し、
扉の近くにいた数人が亡くなったと話していました。
このように、多くの方の犠牲があって日本は復興・発展し、
今の平和な生活ができていると思っています。
熊本市 橋本さん(90代)
1932年生まれの私は、12〜13歳の時に空襲を経験しました。
熊本市への空襲は1944年後半から1945年にかけて頻発し、昼はグラマン戦闘機、
夜はB29といった具合です。
アメリカ軍機が飛来する回数は数えきれないくらいの頻度でした。
当時、中学生となった私は、学校の指示のもと熊本市中心部にあった校舎には通わず、
自宅のある川尻から歩いて30分ほどの田畑でコメや麦を栽培することに
従事していました。
その際、空襲警報が周囲に鳴り響くと、近くを流れる緑川にかかる橋の下に
逃げ込んでいました。
戦闘機は私たちから操縦士の顔が見えるくらいまで降下してきて、
「ダッダッダッダッ…」と機銃掃射してきていました。
死と隣り合わせの状況が続いていましたが、相次ぐ空襲で、
なぜか怖いという感覚は無くなっていて「また来たか」という感じになっていました。
また、夜の空襲ではアメリカ軍機が空の上から建物に油のようなものをまいた上で、
火をつけていました。
油のようなものの影響なのか、火がついた家は一瞬にして炎に包まれていました。
当時は、空襲から身を守るため、玄関のドアや窓などにカギをかけることはなく、
夜中でもすぐに家を飛び出して、防空壕に逃げ込めるようにしていたことを
今でも覚えています。
戦争を経験して今いえるのは
「戦争で一番かわいそうなのは、一般市民である。」
このことです。
熊本市 山口さん(60代)
*手記を基に掲載
当時15歳の亡き母が語ってくれた、1945年8月10日の熊本大空襲の話です。
その日、母と友人は2人で学校(熊本市)の運動場の唐芋畑で草取りをしていました。
その時、突然 南の方から低い音で「ブーン」という飛行機の音が聞こえてきたかと思うと、
それと同時に「空襲警報!」と叫ぶ声が聞こえました。
ただ、母と友人は突然の出来事に、どこへ逃げればいいのか分からず、
その場に立ち尽くしてしまいました。
するとその姿を見た兵士の一人に、
「おい、こっちだ。こっちに来い。ここに入れ。」と、
軍用に整備された防空壕に入れてもらい、命を救われたそうです。
しばらくして、防空壕から出ると小学校の校舎はものすごい炎に包まれていて、
あの時、防空壕に逃げ込めなかったら命はなかっただろうと
当時のことを語っていました。
また、この空襲では、
母のもう一人の友人も壮絶な経験をしていたそうです。
その友人の方は、空襲から逃れようと、幼い妹2人を連れて
自宅の防空壕へと急いでいました。
3人の後ろからは、戦闘機がバラバラバラと機銃掃射しながら
ものすごい勢いで近づいてきたといいます。
友人は、右手と左手それぞれに妹の手を握りしめ、
2人を引っ張りながら無我夢中で走っていました。
戦闘機は、大きな音をたてながら頭上を越えていきます。
その時、ハッと気づくと、2人の妹を引いているはずの片方の手だけが
軽くなっているのに気づいたそうです。
慌てて振り向くと、1人の妹の片腕だけを握って走っていたのです。
妹は一命を取り留めたものの、片腕を失いました。
熊本大空襲から80年。
これが、実際に身近であった戦争の話です。
熊本市 柴田さん(60代)
2016年、熊本地震で築約130年の自宅は大規模半壊。
壁などに大きな被害が出ました。
その片付けの際に見つけた、2階の梁から飛び出た金属の物体。
後に、熊本大空襲で戦闘機から機銃掃射された際の機銃弾が
梁にめり込んだものだと分かりました。
他にも地震で被害を受けた材木を割ってみると、
その中から同じような機銃弾が出てきました。
熊本地震の後に亡くなった父は、熊本大空襲の時10歳。
空襲は「本当に怖かった。」と話し、
戦後、自宅の庭を掘りかえしたら、機銃弾がたくさん出てきたとも言っていました。
ただ、父から空襲の詳しい話を聞くことはありませんでした。
今、考えると父にとって戦争は忘れたい記憶だったのかもしれません。
戦後80年。
改めて材木に残っていた弾を持ってみると、その重さに
「このような弾が、人間に当たっていたら、ひとたまりもなかったと思います。
父も本当に怖かっただろう。」と感じています。
熊本市 男性(20代)
長崎に住む祖母(90) は10歳の時に長崎市で被爆しました。
祖母は毎年、原爆が投下された8月9日の平和祈念式典を見るたびに、
涙を流していましたが、祖母の口から戦争の話を聞くことはほとんどありませんでした。
しかし、10年前 私が高校生の時です。
地元新聞社が主催した「被爆体験を伝える会」で、祖母が自分の経験を語ったのです。
なぜ語ったのか。
祖母は「戦争を経験している人が減ってきている。
きちんと戦争の現実を伝えていきたい。」とその思いを話してくれました。
その時に聞いた内容を、伝えたいと思います。
1945年8月9日午前11時すぎ。
当時10歳だった祖母は、爆心地から約10キロ離れた場所に住んでいたそうです。
祖母は、両親の代わりに3歳の妹の面倒をみながら、ほかの子どもたちと一緒に
遊んでいた時だったといいます。
ピカッという閃光と同時にものすごい風に襲われ、抱えていた妹ごと、
吹き飛ばされたそうです。
気が付くと祖母の腕は火傷したように熱くなり、妹は何かにぶつけたのか、
頭から血を流していたといいます。
さらに、上空を見ると青く晴れ渡っていた空が真っ赤に染まり、
地上を見ると血だらけの人や、火傷した人たちが
ぞろぞろと歩いていくのが見えたといいます。
被爆した人たちからは「水を飲ませてください」との声が聞かれ、
周囲の人が、近くの井戸から水をくみ、歩いてきた人たちに
水を飲ませたり、体にかけたりしていたそうです。
2日後、爆心地の近くに連れられて行くと、そこには恐ろしい光景が
広がっていました。
町には煙が上がり、町全体が黒くくすぶっている状況で、
人や牛や馬が、あちこちに倒れたままだったといいます。
今も原爆の後遺症に苦しめられる祖母が繰り返す言葉。
それは「戦争を2度としてはいけい」ということです。
熊本市 山口さん(60代)
*手記を基に掲載
1930年生まれの亡き母に30年ほど前に聞いた話です。
戦時中で思い出すことはと聞くと「とにかくひもじかった。」と言っていました。
食糧難の時代、食事は大根やカボチャの雑炊がほとんどで、とにかく空腹だったそうです。
「唐芋ご飯」もありましたが、それも芋にご飯粒が少しくっついているぐらいだったと
いいます。
何度か、近くの田んぼで田植えの手伝いをしたときに、
農家の方からもらった白米だけのおにぎりが、とても美味しかったと話していました。
当時、国民学校(熊本市)の運動場は、唐芋畑にされ、
校舎は陸軍の兵隊宿舎として使われていたことから、
子どもたちは近くの神社や寺に分かれて勉強していたそうです。
ただ、上級生(現在の中学生)は草取り作業や、竹槍訓練などで
ほとんど勉強らしい勉強はできなかったと、当時を振り返っていたことが
記憶に残っています。
熊本市 渡辺さん(70代)
この家族写真に写る男性が、1942年当時、
霞ヶ浦海軍航空隊(茨城)に所属していた義父(当時26)です。
義母(当時24)に抱えられているのが、私の夫(当時5か月)です。
この写真が義母に届いて、約1か月後の5月19日。
義父は家族に宛て次のような手紙を記していました。
「決して私のことは心配するな。総ては運だ。悪運は強い、安心して居て呉れ。」
「旬日中に前進する。」(原文のまま)
この後、義父はパイロットとして航空母艦「飛龍」に搭乗し、
ミッドウェー島へ向かいました。
しかし、6月5日、義父が乗る「飛龍」はアメリカ軍の攻撃を受け沈没。
帰らぬ人となりました。
その年の11月、佐世保で執り行われた「合同海軍葬」
参列した義母が涙を流すと「軍人の妻は涙を流すな。」と叱責されたそうです。
大切な人の死を悼むこともできない時代を生き抜いた義母は、
いつも「戦争は家族を奪う。」と話していました。
そんな義母が、捨てきれなかったのが義父の海軍制帽です。
結婚して数か月で失った義父を、少しでも感じていたかったのだと思います。
また、義父の遺骨が戻ってこなかったことから、
義母は「まだ海のどこかに主人の体がある。」と語り、
「海を見ると悲しくなる。」と口癖のように話していたことが強く印象に残っています。
玉名市 森さん(80代)
1945年8月の記憶です。
3歳半だった私は、新町(熊本市)*当時:新細工町に住んでいて、
この日は2階で3歳上の兄と一緒に遊んでいました。
その時です。
空襲警報のサイレンが鳴り響いたかと思うと、
私たちが庭にある防空壕に避難する間もなく、
空から「バッバッバッ」と機銃掃射が始まりました。
攻撃してきたのは、おそらくB29の護衛機数機だったと思います。
私が兄に抱きしめられて身動きができない状態でいると、
機関銃の弾が家の窓ガラスを貫通し、
私たち兄弟がいた場所から約1メートル離れた場所にある
タンス2棹(さお)を打ち抜いたのが分かりました。
その後、近くの学校(現:西山中学校)が爆撃を受け、
燃え上がる建物を窓から乗り出して見ていました。
この日のことは、あまりの恐怖に今でも記憶に鮮明に残っています。
私が戦争当時使っていた「防空頭巾」と共に、
父が持っていた「千人針」も戦争の記憶として必要と思い、今も保管しています。
上益城郡 女性(70代)
約2年前に96歳で亡くなった母が、熊本大空襲の状況を書き留めていましたので、
お送りします。
【以下、お母様の日記】*一部を抜粋 ほぼ原文のまま
1945年、空襲が激しくなり、元日も健軍地区(熊本市)の三菱重工業へ出勤。
朝暗いうちから出勤し、帰りも暗くなっていたが、それでも皆若いから楽しかった。
幹部の方から部品番号を尋ねられ、自分の担当だったけど、間違っていたら大変だと思い
言えなかった。
空襲がだんだんひどくなり、帳簿をもって避難しました。
7月1日、夜、空襲で弾がヒューヒューと落ちてくる。
バケツを持って防空壕から出てみたら、家の前が真っ赤に燃えているのが見えた時は、
ダメだと思い。そのまま4人で逃げました。
必死に走り、敵機の機銃を避け、田んぼに這いつくばった。
赤ちゃんをおんぶしていた奥さんが、道の下の田んぼの水たまりに落ちたので、
私も下におりて、押し上げました。
熊本市 中川さん(50代)
約4年前、両親が他界し、仏壇を整理していた際に出てきたハガキです。
祖父の弟(当時19歳か20歳)が日中戦争のさ中、戦地から父親宛てに送ったものです。
ハガキを読んだときは、胸が熱くなりました。
この手紙から約4年後、祖父の弟は病を患い亡くなりました。
【以下、ハガキ記載の内容】*ほぼ原文のまま
乱筆にて御免ください。
皆さまにはお変わりありませんか。
僕も元気で、中国(北支)に着き、軍務に励んでいます。
ご安心ください。
近所の方々にもよろしく(四六四九)お伝えください。
母上様には、お身体大切にとお伝えください。
妹にも、一生懸命に勉強して、偉い人になるように。
中国(支那)の地の珍しいこと。面白いことは、後の便りで詳しくお伝えいたします。
上益城郡 堀さん(50代)
40年ほど前。
小学校の修学旅行で長崎県に行った。
平和公園では、原爆の被害にあった瓦を探すことに。
植込みを探すと、熱で溶けてできた水泡の固まったような跡がある瓦が見つかった。
今思えば、戦争の悲惨さを実感した瞬間だったように思う。
菊池市 佐藤さん(60代)
義母の実家に保管されていた戦争の資料です。
日中戦争で台湾に派遣された義父。
帰還した際に交付されたであろう支那事変行賞 賜金国庫債券。
(政府が資金調達のために発行した債券)
昭和15年(1940年)発行と記されてある。
帰還後の義父の生活は厳しかったと聞いているが、
1枚も使われていなかった。
義父は戦争について、何かしらの思いがあったのかもしれない。
また、資料を整理していた時に出てきた
旧陸軍大刀洗飛行場(福岡)で叔父が撮影されたとみられる写真。
そこには「八八式偵察機」や「愛国」と書かれた飛行機が映っていた。
熊本市 中尾さん(50代)
祖父は、理髪師として活躍していましたが、戦争で海軍に徴兵され、
海防艦に乗っていたようです。
わずかな戦争の記憶かもしれませんが、資料として残していければと思い連絡しました。
一つは、1945年熊本大空襲時の空襲による被害を証明する「罹災証明書」。
祖母の名前が世帯主にありました。
もう一つは、祖父の弟の「戦死告知書」戦死したことを国から家族へ伝えたもの。
祖父から戦争の話は聞いたことがないが、祖父の遺品として保管していました。
熊本市 女性(90代)
1945年7月1日の熊本大空襲では、師範学校(熊本市)の寮にいました。
「ヒューッ」という音を聞いて、第二高等女学校(熊本市)に焼夷弾が落ちるのが
見えました。
私は消火班だったので、大八車に乗せた消火設備を8人がかりで移動させ消火に
あたりました。その際、左足の甲を大八車にひかれ、臨時の救護室に連れていかれました。
その後は、近所の人がリアカーで迎えに来てくれ家に帰ったことを覚えています。
熊本市 本田さん(80代)
私の戦争の記憶です。
終戦前の私が4歳のころ、(1945年)
花岡山(熊本市)を越えて南の方から爆撃機が飛来してきた。
空襲警報と共に、私は母から防空壕に放り込まれた。
防空壕の中から外を見ていると、
爆撃機が焼夷弾を落とすのが見えた。
まるで花火のようにいろいろな色を放っていたのが印象深く記憶に残っている。
焼夷弾は、最初 田んぼに落ち、そして私の家から
約200メートル離れた学校に落ち、校舎が燃え上がった。
防空壕から外に出ると、火事の影響だったのか、とにかく熱かった。
一方で、当時を振り返りと「怖い」という感覚よりも
爆撃機の爆音や、屋根瓦の落ちる音がとにかく嫌だったことを覚えている。
熊本市 女性(80代)伝聞
当時6歳。
今の熊本市中央区坪井で経験した空襲。
防空壕に逃げようとしたが、「防空壕自体が燃えている」と言われ田畑を逃げまどった。
人の姿が上空から見えると狙われると思い、姿を隠すために、サトイモ畑の大きな葉の下に
逃げ込むと、そこにはすでに20人ほどの人が身を寄せていた。
さらに、近くの小川には焼夷弾の油が流出し、その油に火が着いたのか、
「川が燃えていた」あの光景は今でも覚えている。
熊本市 橋本さん(60代)
空襲の時、「グラマン戦闘機の操縦士が笑いながら撃っているのが見えた」
その話を母から聞いた時、子ども心に『戦争は人を変える』と思いました。
戦闘機の操縦士も、誰かの子どもで、誰かの父親かもしれないと思ったからです。
熊本市 女性(80代)
熊本大空襲のあの日、私は4歳になったばかりでした。
熊本市の白川の土手にたくさんの人が川の方に足を向けて寝かされていました。
その時、突然空が暗くなり、飛行機(B29)がスッーと、静かに移動してきました。
そして、豆炭のような黒い球がザァーッという音をたてて川面に落ちて、
川は油を流したようにぬめっとなり、その瞬間、メラメラと炎が川面を走りました。
白川の対岸は火の海。
その中に4〜3階建てのビルの柱が火柱になって燃えあがっていました。
83歳の今になっても、頭の中にあるこの映像がくっきりと出てきます。
4歳の子どもに恐ろしいという気持ちは無く。
ただただ、今もその映像は頭の中に出てきてしまいます。
ウクライナの子供たちの心の傷は計り知れません。
熊本市 江藤さん(70代)
1950年生まれの私には戦争の実体験はありません。
ただ、戦争の傷跡は体験しています。
足を失った傷痍軍人が新市街(熊本市)の入り口で、手をついてお金を無心する姿。
悲しいアコーディオンの音色が忘れられません。
家族を養うため仕方なく自らの姿をさらしていたとわかったのは最近のことです。
一方、戦争を経験した1910年生まれの私の父は終戦の時は34才。
戦争末期は迎町(熊本市)周辺に住んでいたようですが、そこで米軍の空襲にあったそうです。
先祖伝来の槍や刀、鎧等すべて燃えてしまったそうです。
米軍艦載機の空襲もたびたびあったようです。
機銃掃射のあと、ニヤリと薄笑いを浮かべながら飛び去る若い米兵。
おそらく航空機の機種はグラマンF6Fと思われますが、悔しくてたまらなかったと
言っていました。
熊本市 男性(40代)
17年前、83歳で亡くなった祖父の話です。
孫の私に突然祖父が戦争の話をしたのは、祖父が82歳の時。亡くなる1年前でした。
一番記憶に残っている話は、祖父が宮崎に出征中、宮崎沖に多くの数のアメリカ軍の艦隊を
見た時、その艦隊の数と大砲の装備を見て「日本は負ける」と前線にいた仲間内で話していた
と語ってくれたことです。
ただ、そのような話を上官にすることはできなかったと言っていました。
祖父は本当は戦争の話をしたくなかったんだと思います。
戦争の話をする祖父は、何かを回想しているようでした。
戦争の経験を誰かに伝える必要があると感じていたように見えました。
熊本市 寺本さん(80代)
1945年7月1日の熊本大空襲。
熊本市の本荘小学校の近くに住んでいた私は、3人きょうだいの長男で小学3年生だった。
夜中、空襲警報が鳴る中、目が不自由な祖父と、4歳の妹を乳母車に乗せ、
そして7歳の弟を引き連れ逃げまどった。
焼夷弾がいくつも落とされ、爆発音が幾度となく鳴り響いていた。
空襲が2時間ほど続く中、燃えていない方、燃えていない方へと逃げた結果、
なんとか命を取り留めたが、その時のことは、今でも記憶に鮮明に残っている。
空襲の後、夜が明けると街の姿は変わっていた。
自分の家から見えるはずのない阿蘇の山々が見えるようになっていた。
建物が燃えてなくなっていたからだ。
あの日の街に漂う「いやなにおい」は今でも覚えている。
熊本市 寺本さん(80代)
父が出征する前に、本荘(熊本市)の自宅で撮影した写真です。
戦地フィリピンから父は、4年間にわたって私たち子どもや
母に手紙を送り続けてくれました。
【以下、ハガキ記載の内容】*ほぼ原文のまま
ヨシタカは、小学2年生になりましたか。
そして、毎日学校に行っていますか。
よく先生の教えを守って、良い日本人になって下さい。
お父様が軍艦の絵をかきました。
見てください。
体を大切に頼みます。
サヨナラ。
1944年4月18日
玉名市 村田さん(40代)
1923年生まれの祖母から聞いた話しです。
私の祖母は太平洋戦争中に満洲の北、旧ソ連との国境付近の黒龍江省で「進軍食堂」
という名の軍指定の食堂を、料理人の兄と弟と3人で経営していたそうです。
戦況が悪化してきた1945年の5月か6月ごろに、故郷の玉名市月瀬村の村長さんから、
実家の母親の体調が良くないので戻ったほうがいい、と連絡がきたらしく、
そのタイミングで食堂を畳んで帰国することになったそうです。
そして、満州鉄道で帰国していた時にハルピン駅あたりでお兄さんに
「忘れ物をしたから取りに帰る。先に行っておいてくれ」と言われ、一旦別れ、
結局その後兄とは会えず、祖母だけが帰国したそうです。
それから数か月後の8月に旧ソ連軍が満洲に侵攻。
お兄さんはそれに巻き込まれたのか、結局帰国することはなく、
祖母は二度とお兄さんと再会することはなかったそうです。
あの時忘れ物をしなかったら兄も無事に帰国できたのに、と祖母は言っていました。
祖母にとって青春時代を過ごした満洲での食堂の思い出は忘れられないらしく、
死ぬまでにもう一度満洲へ行きたいと言っていましたが、数年前に99歳で亡くなりました。
私は歴史が好きでしたので、祖父や祖母から戦争時代の頃の話しをたくさん聞きました。
あの時代を生きた人達がもうすぐいなくなってしまう時代になってきました。
絶対に忘れてはいけません。
私はできる限り伝えていきたいと思います。
熊本市 女性(80代)
1944〜1945年にかけて当時小学生だった私は玉名市に住んでいました。
爆撃機が来襲する恐れがある際に鳴る「警戒警報」の音を聞くと、
死に物狂いで防空壕に逃げ込みました。
夜は、街灯もない真っ暗な道を走って逃げた記憶があります。
また、B29が編隊を組んで来襲するとガラスの戸がガタガタと揺れ、
恐怖を感じていました。
1945年の熊本大空襲の際は、玉名市から熊本市の方向を見ると、空が真っ赤になっていて、
空襲の被害にあっていると思いました。
終戦直前の1945年8月9日午前、雲一つない晴天でした。
菊池川の堤防にいたら「ドロドロドロー」という音が響き、
長崎の方向にキノコ雲がみえたことを覚えています。
東京都・板橋区 川中さん(70代)
私は戦後の生まれで、戦争を直接体験したわけではありませんが、
高校生の頃、原爆遺族である父から聞いた話を皆様にお伝えしたいと思います。
1945年の終戦間際、長崎に住んでいた父は、
技術系であったため終戦の約3か月前に兵役に召集されました。
父が出征兵士を乗せた列車に乗る際、駅には多くの見送りの人々が駆けつけていたそうです。
その中には父の母親の姿もありましたが、直接声をかけることは叶いませんでした。
そして迎えた終戦。
故郷である長崎は原爆によって跡形もなくなり、全ての命が奪われました。
大切な母親も、姉も、そこで命を落としました。
出征の際、駅で目にした母の姿が、父にとって最期となってしまったのです。
父は戦争体験について、それ以上多くを語ろうとはしませんでした。
しかし、そのような父が私に問いかけた言葉で、今も忘れられないものがあります。
「アメリカも、どの国も恨んではいけない。
これからの人々が二度とこんな愚かなことをしないことが何よりも大切だ。
一人ひとりは非力かもしれないが、決して無力ではない。
子や孫たちに、こんな思いをさせることのないように。」
この父の言葉を、皆様と分かち合いたいと強く願っています。
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