
※証言やいただいた文章に基づいて記載しています
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
熊本市 前田さん(40代)
中国に出征したことがある祖父(1919年生まれ)は、幼少期の私の枕元で、
太平洋戦争当時の話を聞かせてくれることがありました。
なかでも特に強く印象に残っているのは、戦地で出会った中国人の孤児を引き取り、
従軍中に面倒をみていたという話です。
食事はもちろん移動の際は子どもを軍馬に乗せ、自身はできるだけ徒歩で行軍したと
聞いた記憶があります。
多くの戦友を失いながらも、辛うじて生きながらえ終戦を迎えたそうです。
引揚げの際、その少年は祖父に対し、「日本に一緒につれていってほしい」と
泣いて懇願したそうです。
戦後40〜50年ほど経過したころ祖父は「その少年はどうしているだろうか、
生きていれば今◯◯歳ぐらいだろう、会えるものなら会いたい。」と話すこともありました。
その当時、私はただただ話に聞き入るばかりでしたが、歳を重ねたいま、改めて祖父の話を
思い出すことが多くなっているのは、戦争を風化させるのを許さない世情となっているから
ではないかと感じています。
「戦争だけは絶対にしたらいかん」という誰にともなく発する祖父の言葉を、
何度も枕元で聞きました。
玉名市 村田さん(40代)
1923年生まれの祖母から聞いた話しです。
私の祖母は太平洋戦争中に満洲の北、旧ソ連との国境付近の黒龍江省で「進軍食堂」
という名の軍指定の食堂を、料理人の兄と弟と3人で経営していたそうです。
戦況が悪化してきた1945年の5月か6月ごろに、故郷の玉名市月瀬村の村長さんから、
実家の母親の体調が良くないので戻ったほうがいい、と連絡がきたらしく、
そのタイミングで食堂を畳んで帰国することになったそうです。
そして、満州鉄道で帰国していた時にハルピン駅あたりでお兄さんに
「忘れ物をしたから取りに帰る。先に行っておいてくれ」と言われ、一旦別れ、
結局その後兄とは会えず、祖母だけが帰国したそうです。
それから数か月後の8月に旧ソ連軍が満洲に侵攻。
お兄さんはそれに巻き込まれたのか、結局帰国することはなく、
祖母は二度とお兄さんと再会することはなかったそうです。
あの時忘れ物をしなかったら兄も無事に帰国できたのに、と祖母は言っていました。
祖母にとって青春時代を過ごした満洲での食堂の思い出は忘れられないらしく、
死ぬまでにもう一度満洲へ行きたいと言っていましたが、数年前に99歳で亡くなりました。
私は歴史が好きでしたので、祖父や祖母から戦争時代の頃の話しをたくさん聞きました。
あの時代を生きた人達がもうすぐいなくなってしまう時代になってきました。
絶対に忘れてはいけません。
私はできる限り伝えていきたいと思います。
熊本市 江藤さん(70代)
1950年生まれの私には戦争の実体験はありません。
ただ、戦争の傷跡は体験しています。
足を失った傷痍軍人が新市街(熊本市)の入り口で、手をついてお金を無心する姿。
悲しいアコーディオンの音色が忘れられません。
家族を養うため仕方なく自らの姿をさらしていたとわかったのは最近のことです。
一方、戦争を経験した1910年生まれの私の父は終戦の時は34才。
戦争末期は迎町(熊本市)周辺に住んでいたようですが、そこで米軍の空襲にあったそうです。
先祖伝来の槍や刀、鎧等すべて燃えてしまったそうです。
米軍艦載機の空襲もたびたびあったようです。
機銃掃射のあと、ニヤリと薄笑いを浮かべながら飛び去る若い米兵。
おそらく航空機の機種はグラマンF6Fと思われますが、悔しくてたまらなかったと
言っていました。
熊本市 女性(80代)
1944〜1945年にかけて当時小学生だった私は玉名市に住んでいました。
爆撃機が来襲する恐れがある際に鳴る「警戒警報」の音を聞くと、
死に物狂いで防空壕に逃げ込みました。
夜は、街灯もない真っ暗な道を走って逃げた記憶があります。
また、B29が編隊を組んで来襲するとガラスの戸がガタガタと揺れ、
恐怖を感じていました。
1945年の熊本大空襲の際は、玉名市から熊本市の方向を見ると、空が真っ赤になっていて、
空襲の被害にあっていると思いました。
終戦直前の1945年8月9日午前、雲一つない晴天でした。
菊池川の堤防にいたら「ドロドロドロー」という音が響き、
長崎の方向にキノコ雲がみえたことを覚えています。
熊本市 男性(40代)
17年前、83歳で亡くなった祖父の話です。
孫の私に突然祖父が戦争の話をしたのは、祖父が82歳の時。亡くなる1年前でした。
一番記憶に残っている話は、祖父が宮崎に出征中、宮崎沖に多くの数のアメリカ軍の艦隊を
見た時、その艦隊の数と大砲の装備を見て「日本は負ける」と前線にいた仲間内で話していた
と語ってくれたことです。
ただ、そのような話を上官にすることはできなかったと言っていました。
祖父は本当は戦争の話をしたくなかったんだと思います。
戦争の話をする祖父は、何かを回想しているようでした。
戦争の経験を誰かに伝える必要があると感じていたように見えました。
熊本市 徳永さん(80代)
父は私が2歳の時、出征先の台湾で亡くなったそうです。
1945年1月9日のことだったそうだと聞いています。
それから80年。
父が出征した時、私は生後6か月。
私は父の顔も、声も、肌のぬくもりも分からないが、一度は父が亡くなった場所を訪れ、
追悼したいと思い続け、その思いがやっと叶いました。
今年1月、姉と共に台湾・高雄を訪れたのです。
父の部隊は第96駆潜特務艇。
資料によると高雄沖36キロの地点で、空から攻撃を受け、沈没したようです。
多くの戦友と共に海の底に沈んだ父。
冷たい海に沈み、遺骨、遺品も回収されず、無念だったと思います。
父の死から80年。
36キロ先に父がいると思うとうれしかった。
この体験を、子や孫に伝え、若い世代に引き継ぐことが私たちの責務だと思っています。
熊本市 寺本さん(80代)
1945年7月1日の熊本大空襲。
熊本市の本荘小学校の近くに住んでいた私は、3人きょうだいの長男で小学3年生だった。
夜中、空襲警報が鳴る中、目が不自由な祖父と、4歳の妹を乳母車に乗せ、
そして7歳の弟を引き連れ逃げまどった。
焼夷弾がいくつも落とされ、爆発音が幾度となく鳴り響いていた。
空襲が2時間ほど続く中、燃えていない方、燃えていない方へと逃げた結果、
なんとか命を取り留めたが、その時のことは、今でも記憶に鮮明に残っている。
空襲の後、夜が明けると街の姿は変わっていた。
自分の家から見えるはずのない阿蘇の山々が見えるようになっていた。
建物が燃えてなくなっていたからだ。
あの日の街に漂う「いやなにおい」は今でも覚えている。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 寺本さん(80代)
父が出征する前に、本荘(熊本市)の自宅で撮影した写真です。
戦地フィリピンから父は、4年間にわたって私たち子どもや
母に手紙を送り続けてくれました。
【以下、ハガキ記載の内容】*ほぼ原文のまま
ヨシタカは、小学2年生になりましたか。
そして、毎日学校に行っていますか。
よく先生の教えを守って、良い日本人になって下さい。
お父様が軍艦の絵をかきました。
見てください。
体を大切に頼みます。
サヨナラ。
1944年4月18日
熊本市 森さん(70代)
亡くなった父は、1920年生まれで、陸軍第6師団13連隊の少尉として、
フィリピンのネグロス島で終戦を迎えました。
しかし、その父はB級戦犯として絞首刑を言い渡され、
巣鴨プリズン(東京)に収監されましたが、後に恩赦より出所しました。(*詳細な出所時期不明)
なぜB級戦犯となったのか、父は私に多くを語りませんでしたが、
「フィリピンでは、軍服を着ず動いていて、情報収集にあたっていた。」
という話を聞いたことがあります。
また、絞首刑の判決を受けた時の思いについては、
「部下を何人も死なせてしまった。そもそも生きて日本に帰れるとは思っていなかった。
絞首刑の判決は仕方がない。」とも語っていました。
父が巣鴨プリズンで記した「獄中記」が残っています。
【以下、獄中記】*ほぼ原文のまま
(*自身の刑が執行された際に、遺品として家族へ渡そうとしたもの)
この帳面は、死刑の宣告を受けてから殺されるまでの
独房生活中、その日その日、頭に浮かんだものを、その都度書いたものである。
寂として声もない一間半の独房、四面と天井は大きな鉄の格子。床はコンクリート。
訪ねて来る人もなく、ただ一人座ってこの帳面に向かっている等の姿と環境を
頭に浮かべて静かにこの帳面を読んでください。
熊本市 森さん(70代)
B級戦犯として、絞首刑の判決を受け収監された父の日記
【以下、獄中記】*一部抜粋ほぼ原文のまま
鉄格子の隅にせっせと働くクモの動きを眺めて時を過ごす。
見事にはり廻されたクモの巣に、あわれにも身の自由を失った小さな虫が一つ。
早、観念したのか総てを天に任せて吹く風にゆらゆら揺れている。
間もなく、この小さい虫もあのクモによって殺されてしまうだろう。
ここにも一つの虐殺が行われようとしている。
あの虫も俺と同じく理由なくして、殺されてしまうのであろう。
だが小虫よ嘆くな。お前を殺したやつもいずれ君の情を追ってあの世へ行くのだ。
とうとう小虫は死んでしまった。
そして俺は、その可哀そうな小虫の仇をうつべく、
あのクモをつかんで、コンクリートの床に力一杯たたきつけた。
間もなくそのクモは死んだ。今度は俺の番だ・・・
熊本市 甲斐さん(80代)
1945年。当時2歳の頃の記憶です。
飛行機の音がしたら、防空壕へ逃げる。
これを繰り返していました。
防空壕までは、家から歩いて約5分。
母に手を引かれて行っていました。
今でも明確に覚えているのは、グラマン戦闘機と思われる飛行機の音です。
今の小型機よりも甲高い音だったと記憶しています。
防空壕の中では、母が玄米を一升瓶に入れて、竹でついて、
精米していたことも覚えています。
当時2歳でしたが、鮮明に記憶が残っています。
また、自宅では、夜になると空襲の目標にならないようにと、
電灯の笠の部分に黒い布を被せ、光が外にもれないようにしていたことも覚えています。
終戦後、中国から引き揚げてきた父からは、戦争の話を聞くことはありませんでした。
恐らく、戦地ではいろいろなことがあり、話したくなかったのだろうと思います。
最後に、日中戦争中(1937年)に熊本県と熊本市の名前で
配布されたとみられる資料も提供します。
B5サイズほどの紙には見出しに「納税報国」「期限確守」と
書かれていて、文章の中には、
帝国臣民の重き務めが3つある。
一に兵役
二に納税
三に学びの庭六年
そして「銃後の赤心」とも記されています。
宇城市 本田さん(90代)
*手記を基に掲載
戦後、日本の多くの若者が遠く離れた異国の地で過酷な運命を背負いました。
私もその一人です。
戦後 私はシベリアに抑留され、極寒の地で過酷な労働を強いられ、
飢えや寒さと闘いました。
その過酷さから、多くの仲間たちがこの世を去りました。
一方で、人の温かさにも触れました。
監視のない農場で、地元の人たちから食料を分けてもらいました。
これは、極限の状況でも人と人が助け合えることを教えてくれました。
今 私は、母国 日本に帰ることなく、シベリアの地で亡くなった
戦友たちの無念を受け止め、彼らの声を未来へつなぐことが生きる意味となっています。
シベリア抑留の歴史は、戦争がもたらした現実です。
これを、私たちが語り継いでいくべきだと思っています。
私が伝えたいのは、「戦争が奪ったものの大きさ」と
「どのような状況でも人の温かさは失われない」こと、
そして「二度と悲劇を繰り返さないように、平和を守る」ということです。
熊本市 平野さん(70代)
私が両親から聞いた話です。
1926年生まれの父は、18歳ごろから中国・青島へ行き、
軍服を作る工場で働いていました。
その時、召集令状となる「赤紙」が父に届きましたが、
父は工場で製造の指導者的立場だったことが影響したのか、
最終的には入隊が免除(猶予)されたということです。
父が入隊予定だった部隊は、戦後シベリアに連れていかれたと聞きました。
あの時、父が入隊しシベリアに行っていたら、父は日本に帰ることができず、
私たち兄妹もこの世に生まれていなかったかもしれないと思うことがあります。
一方、母は三角町で生まれ育ちました。
戦時中は、空襲の度に防空壕に逃げ込んでいましたが、避難している際、
戦闘機から発射された機関銃の弾が防空壕の扉を貫通し、
扉の近くにいた数人が亡くなったと話していました。
このように、多くの方の犠牲があって日本は復興・発展し、
今の平和な生活ができていると思っています。
熊本市 橋本さん(90代)
1932年生まれの私は、12〜13歳の時に空襲を経験しました。
熊本市への空襲は1944年後半から1945年にかけて頻発し、昼はグラマン戦闘機、
夜はB29といった具合です。
アメリカ軍機が飛来する回数は数えきれないくらいの頻度でした。
当時、中学生となった私は、学校の指示のもと熊本市中心部にあった校舎には通わず、
自宅のある川尻から歩いて30分ほどの田畑でコメや麦を栽培することに
従事していました。
その際、空襲警報が周囲に鳴り響くと、近くを流れる緑川にかかる橋の下に
逃げ込んでいました。
戦闘機は私たちから操縦士の顔が見えるくらいまで降下してきて、
「ダッダッダッダッ…」と機銃掃射してきていました。
死と隣り合わせの状況が続いていましたが、相次ぐ空襲で、
なぜか怖いという感覚は無くなっていて「また来たか」という感じになっていました。
また、夜の空襲ではアメリカ軍機が空の上から建物に油のようなものをまいた上で、
火をつけていました。
油のようなものの影響なのか、火がついた家は一瞬にして炎に包まれていました。
当時は、空襲から身を守るため、玄関のドアや窓などにカギをかけることはなく、
夜中でもすぐに家を飛び出して、防空壕に逃げ込めるようにしていたことを
今でも覚えています。
戦争を経験して今いえるのは
「戦争で一番かわいそうなのは、一般市民である。」
このことです。
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