
※証言やいただいた文章に基づいて記載しています
熊本市 福永さん(70代)
これは、熊本大空襲当時、熊本大学産婦人科に医師として勤務していた私の親族による記録です。*原文を基に一部書き換...
熊本市 松尾さん(40代)
祖父は天草出身で、飛行機の整備士をしていました。1945年のある日、爆撃機が飛来し、私は太腿を撃ち抜かれ、広島市...
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 男性(40代)
昨年4月、私の祖母が100歳で他界しました。
祖母は20歳で熊本に来るまで広島で暮らしていて、生前は戦争の記憶を語ることを避けていましたが、
私が20歳を過ぎた頃、何気ない会話の中で、戦時中の体験を話してくれたことがあります。
その話によると、祖母は戦時中、広島城で出兵する兵士たちの名簿を作成する仕事に従事していて、
周囲には多くの兵士たちがいたそうです。
1945年8月6日、その日も朝早くから作業を続けていたところ、
突然強烈な光に包まれ、反射的に机の下に身を隠したとのことです。
原爆が投下されたのです。
意識を取り戻した時、周りは亡くなった兵士たちの遺体で埋め尽くされていたと祖母は語っていました。
家族との合流地点へ向かうため川を渡る必要がありましたが、橋は壊れていて、
泳いで渡るしかありませんでした。
それまで泳ぐことができなかった祖母ですが、必死の思いでなんとか川を渡りきったそうです。
しかし、川を泳いでいる最中に流れてきた大木にぶつかり、膝を怪我したと聞いています。
幸いにも、被爆による身体への直接的な被害はその膝の怪我だけで済んだそうです。
その後、無事に家族と再会できた祖母は、親戚であった祖父の家に身を寄せ、
後に祖父と結婚し、私の父が生まれました。
被爆三世である私も、父と兄弟と共に幸せな日々を送っています。
熊本市 福永さん(70代)
これは、熊本大空襲当時、熊本大学産婦人科に医師として勤務していた私の親族による記録です。
*原文を基に一部書き換えています。
1945年6月30日深夜(7月1日)、ついに熊本にも敵機が襲来しました。
その日私は、医局と実験室を守るため当直に就いていました。
病棟では他の医局員と数名の看護師が病院と患者を守っていました。
激しい数度にわたる敵機の波状攻撃は、防空も防火も全く役に立たず、
私たちはただ自分の命を守るだけで精一杯でした。
基礎教室も病院も全焼し、わずかに研究所と病院の鉄筋部分だけを残して、
一夜のうちにすべてが灰燼と化しました。
生き残った患者と病院の職員は、なんとか白川の堤防や河原に避難し、
ただひたすら夜明けを待ちました。
夜通し駆けつけてくれた先生は、産婦人科の全入院患者と職員の一団を見つけ、走り寄り、
爆撃の中、一晩中患者を守り抜いたことを激賞し、心からの感謝の言葉を述べられました。
この中には、前日に外科で手術をした看護師もいました。
彼女は一人で避難し、病院玄関の睡蓮の池に浸かり、
傷口を押さえながら夜通し同僚を待ち、助かりました。
教授と教室の皆は、このことを知り、驚きと喜びに包まれました。
熊本市 坂本さん(102歳)
1923年生まれの私が終戦を迎える前、1944年に21歳で熊本から
満州の鞍山(あんざん)に住む姉夫婦のもとへ移り住んだ時のことをお話しします。
鞍山は鉄鋼生産が盛んで、製鋼所が多くありました。
そのため、アメリカ軍の攻撃目標となっていたようで、私が鞍山で働き始めた初日、
建物の中で空襲警報が鳴り響きました。
20〜30人の同僚は建物から飛び出して走り出し、私も夢中でその後を追いました。
どこに向かったのかは思い出せません。
空襲は激しく、熊本で経験した焼夷弾ではなく、爆弾が投下され、
直径約10メートル、深さ約2メートルの陥没穴がいくつもできていました。
そのような状況下でも、当時の日本政府は満州での仕事を奨励していて、
給料も本土の約4倍だったため、10代半ばの男性が数多く移り住んできました。
鞍山の街は「寮の町」とも呼ばれ、多くの日本人で活気に満ちていました。
しかし、太平洋戦争の戦況が悪化すると、働きに来ていた10代の男性たちは
戦地へと召集されていきました。
今でも覚えているのは、出征していく男性たちの表情です。
当時20代の私にはまだあどけなさが残る「男の子」といった感じで、
不安そうな気持ちが表れているように感じました。
彼らは日本本土から来ているため身寄りがなく、親や兄弟に出征する姿を見せることなく
戦地へ向かうのです。
私は、連日、鞍山駅から出征していく男の子たちを見送り続けました。
彼らがその後どうなったのかは分かりません。
終戦後は過酷な日々が待っていました。
給料は突然なくなり、生きていくために持っていた衣類などを売って食いつなぎました。
街の雰囲気も変わり果て、鞍山の街には旧ソ連軍が入ってきました。
この頃から女性は旧ソ連兵に襲われないよう、頭を丸刈りにしていました。
早く本土に帰りたい。この思いが叶ったのは、終戦から1年後のことでした。
私は子どもを授かった状態で、夫と二人、引き揚げ船(輸送船)に乗り込みました。
しかし、その船は客席があるようなものではなく、全員が甲板にいる状態でした。
8月ということもあり、直射日光を浴び続け、船の上で命を失う人もいました。
小さな子どもを抱えた母親が亡くなった時、何も分からず泣き続ける子どもたちの姿に胸を痛めました。
また、船で亡くなった人たちの遺体を海に落としていく状況は、今も脳裏に焼き付いています。
上益城郡 男性(40代)
幼い頃から祖父が戦争体験を話していました。
祖父は陸軍で衛生兵をしており、階級は中尉でした。
満州にいた祖父は、終戦間際の1945年。
旧ソ連参戦により決死の逃亡を経験しました。
仲間が銃で撃たれ、旧ソ連軍の追撃をかわしながら
「自分の心臓の音が耳で直接聞こえる」ほどの恐怖を味わったそうです。
土手に隠れ、「ここに来たら刺し違えてもやってやる」とナイフ軍刀を握りしめ
覚悟を決めた瞬間に旧ソ連兵の集団が引き上げたという話は、
祖父の体験の中でも特に印象的でした。
その後、祖父は中国語が堪能だったので、名前を変え中国人になりすまし、
日本へ向かう船の情報を待ち続け、福岡に帰り着くまで1年もの歳月を要しました。
戦後、生まれ育った大牟田福岡が焼け野原となり、多くの仲間が生きる意欲を失う中、
祖父は「俺はもう全てを失った、もう一度、いちから生きなおそう」と
三池炭鉱で働き始めました。
しかし事故に巻き込まれ、晩年は脳梗塞の後遺症に苦しみながらも
「戦争は二度とやっちゃいかん」と口癖のように語っていました。
熊本市 松尾さん(40代)
祖父は天草出身で、飛行機の整備士をしていました。
1945年のある日、爆撃機が飛来し、祖父は太腿を撃ち抜かれ、
広島市内の国立病院に入院することになりました。
当時、病院では皆が鈴をつけなければならなかったのですが、
祖父はそれをなくしてしまったそうです。
慌てて探すと、鈴はベッドの下に落ちていました。
祖父がベッドを降りて鈴を拾おうと這いつくばったその時、
空にはB29が旋回しているのが見えました。
B29は何か黒い物体を落とし、その瞬間、あたりは真っ暗になりました。
祖父の体の上にはベッドや瓦礫がのしかかっていましたが、
なんとか抜け出すと、周囲は瓦礫の山と化していたといいます。
近くには、面識のある看護師さんが倒れていました。
彼女の体は半分ほど埋まり、少し焦げていました。
祖父が彼女を引き上げると、体は半分くらいなくなっていたそうです。
祖父が声を張り上げて誰かいないか探すと、
一人の声が聞こえ、瓦礫の下には血まみれの人がいました。
その人を抱き抱え、さらに人を探して歩き続けましたが、
抱えていた人は亡くなっていたようです。
喉が乾いてたまらず、水を求めて歩いていると、雨が降ってきて、
落ちていた容器に雨水を貯めましたが、
それは黒い水だったので飲むことができませんでした。
次第に窪みには黒い水が溜まり、
血塗れの人々が這いつくばってその黒い水に群がり、
そのまま息絶えていきました。
祖父は被爆者となり、足の長さが次第に変わり、
歩けなくなったため、腰の手術を3回行いました。
そのような祖父でしたが、96歳まで生き、
私たちに戦争の悲惨さを伝えてくれました。
菊池郡 田中さん(70代)
私の家族が経験した戦争と戦後の生活について、筆を執らせていただきました。
私の父は南方戦線で終戦を迎え、蚊が媒介するマラリアに罹患し、
生死の境をさまよっていたそうです。
上官は父を見捨てて帰ろうとしたようですが、部隊にいた同じ地区出身の兵士が
「自分の責任で連れて帰る」と父を背負って故郷へ帰ってきてくださいました。
父は故郷に戻った後も病気が回復せず、療養中に結婚しました。
そのため母は、私が生まれた後も私を背負って父を見舞うために病院に通い詰めました。
父が入院する古い木造の病院の薄暗く長い廊下で、
黒猫の光る目に驚いて病室に逃げ込んだ記憶があります。
ベッドの上から、泣きじゃくる私を父が笑いながら見ていました。
それが、父との唯一の思い出です。
そんな父も私が1歳半の頃に他界しました。
そのため、父の顔は遺影でしか知りません。
一方、母は戦後、病気療養中の父と結婚したことで、苦労が続きました。
土地を借りて山を切り開き、焼き畑農業で野菜を育てたり、蚕を飼ったりしました。
また、日雇いに出て、男性と同じように土木作業で現金を稼ぎました。
地下足袋一枚で力仕事を続けたため、足の爪は変形していました。
母は、日の出から日没まで働き詰め、女手一つで私を育ててくれました。
私たち親子は直接の戦争被害者ではないかもしれませんが、
もしも戦争がなかったなら、もし父が無事であったなら、
母はもっと普通の幸せな人生を歩めたのかもしれないと思うことがあります。
葦北郡 松村さん(80代)
1945年、私が3歳の頃の記憶です。
当時、私が住んでいた熊本県葦北郡でも戦況が悪化し、たび重なる空襲に見舞われました。
空襲警報が鳴るたびに、母に手を引かれ、自宅から200メートルほど離れた防空壕へ
避難していたことを覚えています。
その中でも、特に鮮明に記憶に残っている空襲があります。
それは、自宅からおよそ1キロの場所にあったトンネルを狙ったと思われる機銃掃射です。
私たちが防空壕に逃げ込んだ後、耳にしたすさまじい銃撃音。「バッバッバッバッバッバッ…」と、
連続して戦闘機から弾が発射される音が、まさに私たちがいる場所の上空から聞こえてきました。
アメリカ軍の戦闘機は、トンネルに避難している人々がいることを知っていたかのように、
何度も攻撃を繰り返していました。
その時の銃撃の跡は、80年経った今も残っています。
そして、あの時の爆音は、私の耳から決して離れることはありません。
八代市 徳永さん(98歳)
今年98歳になる私は、生まれてからずっとこの地で暮らしてきました。
18歳だった戦時中の記憶として鮮明に残っているのは、敵機の襲来です。
「グォー」という音を立てて上空を通過するたびに怯えていました。
一方で、地元のお年寄りが「竿竹で(敵機を)落とせ、突き落とせ」と叫んでいたことも覚えています。
そのような戦争を体験した中で、今でも抱き続けている思いがあります。
それは、私のきょうだいのほとんどが女性で、戦地に行く者が誰もいなかったということです。
当時の私は、その状況を心から「恥ずかしい」と思っていました。
地域の男性たちが次々と戦地へ行く中、徳永家からは誰も行けない。
「何か国のお役に立てていない」という思いが強くあり、毎日が気兼ねする日々でした。
その思いは、80年たった今も残り続けています。
戦争のことを思い出すたびに「兵隊、兵隊」とつぶやいてしまいます。
戦争の記憶を鮮明に保ち続けていることに、
徳永さんは最後に「どれだけの苦労だったか」と深く言葉を噛みしめました。
阿蘇市 坂本さん(70代)
1918年生まれの私の父は、太平洋戦争中、
海軍兵として日本の各地にある海軍基地に勤務していました。
戦後、父は小学生だった私に、夕食のたびに当時の話をよくしてくれました。
父は整備士であり、試験パイロットでもあったため、戦闘機の試運転として、
茨城県の霞ヶ浦から鹿児島県の鹿屋まで、何度も飛行テストを行っていたそうです。
その際、万が一の墜落に備え、太平洋の海面すれすれを飛行していたと聞きました。
このように、父が命がけで整備した戦闘機は、時には特攻隊の機体としても使われました。
通常、特攻隊の機体には片道分の燃料しか許されていませんでしたが、
父は「できれば生きて帰ってきてほしい」という思いから、
上官の目を盗んで往復分の燃料を入れていたそうです。
しかし、実際に基地に戻ってくることができた隊員が何人いたのかは分かりません。
次々と若い少年兵たちが命を落とすために離陸していく姿を見続ける中で、
父は生と死が紙一重の時代であったことを痛感していたようです。
そんな父が69歳で亡くなった時には、
当時少年兵で生き抜いた人たちが、我が家を訪れて手を合わせてくれました。
人吉市 橋本さん(50代)
1944年、戦況は悪化の一途をたどり、食糧事情も極めて厳しくなりました。
祖父が戦地で口にできたのは、1日に盃一杯ほどの米だけだったそうです。
そのわずかな米2、3粒とかずらの葉で粥を作り、それが一食分だったと聞いています。
ある日、祖父は輸送船「大和」に乗船することになりました。
行き先は知らされなかったそうです。
夕日が西に傾き始め、穏やかな海を進む輸送船の甲板で仲間と語らっていたその時、
「ドーン」という轟音が響き渡りました。
米軍からの魚雷攻撃でした。
船は一瞬にして縦横に引き裂かれ、瞬く間に沈み始めました。
祖父は海に投げ出され、頭部を負傷しました。
海には重油が流れ出し、引火の危険があったため、必死で泳いでその場を離れたそうです。
救助されるまでの5時間、祖父はただひたすら泳ぎ続けました。
その後3か月間、祖父は治療のため野戦病院に入院しました。
そして翌年8月、天皇陛下の玉音放送により、長く苦しい戦争はついに終わりました。
しかし、終戦から1か月、2か月が過ぎても、祖父が家に戻ることはなく、
戦死の通知も届きませんでした。
祖母は毎日不安でたまらなかったと聞いています。
それでも祖母は、祖父が必ず帰ってくると信じて待ち続けました。
そして終戦の翌年、1946年5月、昼前でした。
軍服姿でバッグを持った男性が玄関に立っていました。
「あらー」と、祖母は珍しい生き物を見るかのように目を丸くしました。
そこに立っていたのは、祖父でした。
祖母にとって、この時が人生で一番幸せな瞬間だったに違いありません。
祖父はにこやかに微笑みながら「元気に帰ってきましたよ」と告げたそうです。
熊本市 清田さん (80代)
終戦の年、私は9歳で北九州に住んでいました。
製鉄所があったためか、北九州は頻繁に空襲に襲われ、
昼夜を問わず空襲警報が鳴り響くたびに、
母と自宅近くの山に掘られたトンネルのような防空壕へ逃げ込んでいました。
防空壕の中はいつも湿っていて、数百人もの人たちが身を寄せ合い、
敵機が去るのを待つ日々でした。
そのような空襲が日常と化していた中でも、1945年6月29日の空襲は
特に鮮明に記憶に残っています。
午前0時15分頃から約1時間、
月明かりが見えなくなるほどにB29が次々と波状的に襲来しました。
防空壕から町を臨むと、町中が夕焼けよりも明るく燃え上がっていたのを覚えています。
翌日、空襲の被害を受けた町を歩くと、
爆弾が落とされたと思われる大きなすり鉢状の穴が地面にできており、
その近くの建物の屋根には、赤ちゃんをおんぶした状態の女性が亡くなっていました。
恐らく、爆弾で吹き飛ばされたのだと思います。
また、日本軍の攻撃を受け墜落したB29の機体には、
アメリカ軍の兵士が体がバラバラになった状態で見つかり、
その肉片を日本軍の兵士が集めている光景も目にしました。
いつも生活していた場所に、突如として現れた多くの遺体。
この壮絶な戦争の記憶は、私の脳裏から決して消え去ることはありません。
熊本市 岡島さん(90代)
1945年、戦争の最中、日本が優勢であるという戦況を信じて耐え忍ぶ国民の上空を、
敵機が悠々と飛び交い、各地の都市への空襲が始まりました。
隈庄の町(現:熊本市南区城南町)には軍の飛行場があり、
私の家は軍の命令により特攻隊の宿泊所となっていました。
少年兵たちは日々明るく、規律正しい兵士ぶりを見せていましたが、
彼らが帰りの燃料を積んでいない飛行機に乗っていく現実に、
家族は陰で涙を流していました。
ある少年兵は、特攻隊として出撃する際、両親の写真を胸のポケットにしまい、
私たちの家の上を翼を左右に傾けて飛んでいきました。
「特攻隊なんか、なぜ志願するのだろう」と心の中では思いましたが、
そのようなまともな考え方は許されぬまま、大きな時代の流れの中に生きている時代でした。
一方、空襲は激しさを増していきました。
不気味な戦闘機の音がすると、何度も爆弾の音が響き渡りました。
夢中で学校の玄関前の防空壕に駆け込むと、反対側から先生も入ってきて、
「覚悟せんといかんばい。もうおしまいばい」とおっしゃいました。
私は「はい」と答え、「20歳までは生きられない。特攻隊の少年兵と同じだ」と
その時思ったことを覚えています。
その後のことは定かではありませんが、
燃え落ちた校舎を後に、家へ帰る時にはへなへなになっていました。
その最中、女性が消防士に両脇を抱えられながら通りかかり、
「燃えてしまった」とつぶやいていました。
また、顔の判別もつかないほど焼けた4、5人が泥人形のようにうずくまっていました。
そして、私の家も焼け落ち、一本の大きな木だけが立っていました。
その時、叔父が家のあった場所に来て、「泣くといかんぞ」と言いました。
その時私は、「泣くもんか、どうせ早かれ遅かれ戦争でみんな死ぬ」と思ったことを忘れることはありません。
熊本市 矢澤さん (90代)
私の父は体が小さかったため、周囲より遅れて1944年6月に戦争に召集されました。
当時私は10歳で、家には14歳の長兄から生後6ヶ月の乳飲み子まで7人の子どもと母が残されました。
我が家は幹線道路沿いにあったため、兵士たちが戦地へ向かうために熊本駅まで行進する
「ザッザッ」という足音を何度も聞いていました。
父が召集されて約2か月後のことです。窓ガラスに石が当たった音で家族が目を覚ますと、
母が窓を開けたところに紙に包まれた石があり、「今行くぞ」と父が書いた紙切れを見つけました。
それを見た母は、末の弟を背負い、走って熊本駅へ向かいました。
父の機転のおかげで、母は熊本駅で父に会うことができ、話をして見送ることができました。
その後、残された家族である母子8人と祖母は、
翌1945年7月の熊本大空襲まで、空襲の度に防空壕に避難しながら生活していました。
大空襲の際には、遠くに火の海を見ながら兄弟で反対方向へ走って逃げたことを覚えています。
我が家は完全に焼失し、数か月間親戚の家に疎開しました。
終戦後しばらくして家族で熊本に戻ってからは、復員する兵士の名前を読み上げる
ラジオ放送を聞きながら、父の帰りを待っていました。
しかし、数年後に父が亡くなったという知らせが届きました。
遺骨や遺品はなく、分かったのは終戦前に病で倒れ、
終戦直後の1945年9月に病死していたということだけでした。
父と母は、あの熊本駅での見送りが最後の別れになるとは互いに思っていなかったと思います。
終戦は1945年8月かもしれませんが、残された家族にとっての悲しみや苦労は
そこで終わりではなく、ずっと続いていたのだと思います。
益城町 倉本さん (60代)
今、私の家族が経験した戦時中の話をお伝えしたいと思います。
父は生前、空襲警報が鳴るたびに麦畑に身を隠し、
B29が上空を通過する音を聞きながら空を見上げていたと話していました。
敵機から見つからないように、麦の穂を体に被せていたそうです。
父がB29の飛行音を口で真似てくれたことがありますが、
実際にその音を聞いた者でなければ表現できないような、とても迫力のあるものでした。
私の母方の祖父と妻の祖父は、共に戦争で戦死しています。
祖母たちは戦争について多くを語ることはなく、残念ながらその多くを聞くことなく亡くなりました。
ただ、私が子どもの頃に祖母の家を訪ねた際、
祖父が出征後にもらった勲章を見せてくれたことがあります。
幼心にも、その勲章の美しさが強く印象に残っています。
また、妻の母方の実家近くの畑には、錆びた戦車が残されていたそうです。
戦争は本当に悲しい出来事で、多くの人々を不幸にします。
二度とこのような悲劇が起こってはならないと強く思います。
天草市 池田さん(70代)
私の母が生前語ってくれた戦争体験についてお伝えしたいと思います。
私の母と2人の兄は旧満州・奉天市で終戦を迎えました。
当時、父は軍に徴兵され、どこに行っているかもわからないままでした。
日本の敗戦と同時に、母は自宅に戻ると暴徒に襲われる危険があることを知り、
2人の兄を連れて工場跡地の難民収容所へ身を寄せたそうです。
しかし、収容所の環境は想像を絶するほど劣悪だったといいます。
雨が降れば汚物が寝床にまで流れ込み、多くの大人や子どもたちが赤痢に感染し、
幼い命が次々と失われていきました。
1946年8月、そのような生活が1年を過ぎた頃、当時5歳だった私の兄も赤痢に感染しました。
日に日に衰弱していく兄は、枕元にいる母に
「お母さん、僕、お骨になりそうだよ。死ぬのが怖いから一緒に来て」と語りかけ、
最期には「お母さん、きれいなお花がいっぱい咲いているから摘んであげるね」と、
花を手渡すような仕草をして「友達が呼んでいるから行くね」と言い、
静かに息を引き取ったそうです。
その1か月後、日本への引き揚げ船が満州に到着しました。
母は「兄があと少し頑張っていたら、日本の小学校に入学するという夢が叶ったのに」と、
深く嘆いていました。
母は遺骨を抱いて、日本に帰ると、毎日墓に通いました。
雨の日には傘を、寒い日には服を着せに行くなど、兄への深い愛情を捧げ続けていました。
それから1年後、シベリアに抑留されていた父が帰還し、
母はその時初めて心ゆくまで涙を流したと話していました。
私が生まれたのは、この出来事の後のことです。
上益城郡 高森さん(70代)
*手記の原文から抜粋し、一部書き換えています。
1945年8月7日、私は満州西北部の街ハイラルへの移動を命じられ、翌8日に到着しました。
しかし、その翌朝の午前4時には非常ラッパが鳴り響き、「ソ連軍が国境を突破しハイラル方面へ進攻中」との情報が流れました。
午前8時にはハイラル市街がソ連軍の空爆を受け始め、その爆音は耳をつんざくほどでした。
私たち約600人の部隊は、ハイラルから興安嶺の本隊との合流を目指し行軍を開始しました。
当初は国道を進む予定でしたが、敵の侵攻が早く、要所要所の集落にはすでに敵影があったため、
道なき道を進むしかありませんでした。
3日間の行軍で水も食料も尽き、毎朝朝露をすすり、落伍者が日ごとに増えていきました。
それでも先を急ぐため、手助けする余裕はなく、持ち歩く兵器の重さに耐えかねて
次々と捨てる状況でした。
終戦を知らされないまま、8月16日に目的地の前線基地にたどり着き、
初めてまともな夕食をとることができました。
翌朝7時、行軍を再開すると、激しい銃声が響き始め、上官から「散れ、散れ」と後方へ指示が出ました。
ふと見上げると、小高い丘の上から敵が一斉射撃で銃弾を浴びせてきました。
私たちに応戦する銃はなく、言葉では表現できないほど雨あられのように弾が降り注ぎました。
私は土をかぶり、頭を伏せていると、すぐ隣で仲間が悲鳴を上げて苦しんでいました。
身動き一つできず、ただ目を閉じて弾がやむのを祈るばかりでした。
40分から50分ほど経った頃でしょうか、敵は200メートルほど先まで迫っていました。
私は母に対し「俺は死にます」とつぶやきながら両手を挙げて立ち上がると、左腕を弾が貫通しました。
すぐにうつ伏せになり、すぐそばに小川があるのが見えました。
私は夢中で飛び込み、他の仲間2人と共に敵から見えない場所まで逃げ延びました。
それからは、毎日敵に見つからないよう歩き続けました。
ある時は、知らずにソ連軍の野営地の脇を通ってしまったこともありました。
見つかっていれば殺されていたでしょう。
そして8月28日の夕方、2人の男が馬を引いてこちらへ向かってきました。
1人が「早く馬に乗れ」と日本語で言ったので、私は「日本人か!?」と大声で叫んでしまいました。
相手は「お前たちはどこの兵隊で、どこから来た?」と尋ね、私は「もともと600人の部隊だったが、
途中敵に遭遇し銃で撃たれ、3人だけになってしまった」と伝えました。
すると1人が落ち着いた態度で、「実は日本は負けたのだ。8月15日、無条件で戦争は終わり、
天皇陛下から直接放送があった」と告げました。
この言葉に「アアア」と大きなため息が出ました。張り詰めていた体がぐったりとした感覚でした。
仲間の1人は「もう死んでもいいですよ」とつぶやきながら歩いていました。
生と死の分かれ道を辿りながら、私たちは生き抜いたのです。
その後、私たちはソ連軍に「日本へ帰る」と言われたにも関わらず、シベリアに抑留されました。
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