
※証言やいただいた文章に基づいて記載しています
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 甲斐さん(80代)
1945年。当時2歳の頃の記憶です。
飛行機の音がしたら、防空壕へ逃げる。
これを繰り返していました。
防空壕までは、家から歩いて約5分。
母に手を引かれて行っていました。
今でも明確に覚えているのは、グラマン戦闘機と思われる飛行機の音です。
今の小型機よりも甲高い音だったと記憶しています。
防空壕の中では、母が玄米を一升瓶に入れて、竹でついて、
精米していたことも覚えています。
当時2歳でしたが、鮮明に記憶が残っています。
また、自宅では、夜になると空襲の目標にならないようにと、
電灯の笠の部分に黒い布を被せ、光が外にもれないようにしていたことも覚えています。
終戦後、中国から引き揚げてきた父からは、戦争の話を聞くことはありませんでした。
恐らく、戦地ではいろいろなことがあり、話したくなかったのだろうと思います。
最後に、日中戦争中(1937年)に熊本県と熊本市の名前で
配布されたとみられる資料も提供します。
B5サイズほどの紙には見出しに「納税報国」「期限確守」と
書かれていて、文章の中には、
帝国臣民の重き務めが3つある。
一に兵役
二に納税
三に学びの庭六年
そして「銃後の赤心」とも記されています。
宇城市 本田さん(90代)
*手記を基に掲載
戦後、日本の多くの若者が遠く離れた異国の地で過酷な運命を背負いました。
私もその一人です。
戦後 私はシベリアに抑留され、極寒の地で過酷な労働を強いられ、
飢えや寒さと闘いました。
その過酷さから、多くの仲間たちがこの世を去りました。
一方で、人の温かさにも触れました。
監視のない農場で、地元の人たちから食料を分けてもらいました。
これは、極限の状況でも人と人が助け合えることを教えてくれました。
今 私は、母国 日本に帰ることなく、シベリアの地で亡くなった
戦友たちの無念を受け止め、彼らの声を未来へつなぐことが生きる意味となっています。
シベリア抑留の歴史は、戦争がもたらした現実です。
これを、私たちが語り継いでいくべきだと思っています。
私が伝えたいのは、「戦争が奪ったものの大きさ」と
「どのような状況でも人の温かさは失われない」こと、
そして「二度と悲劇を繰り返さないように、平和を守る」ということです。
熊本市 平野さん(70代)
私が両親から聞いた話です。
1926年生まれの父は、18歳ごろから中国・青島へ行き、
軍服を作る工場で働いていました。
その時、召集令状となる「赤紙」が父に届きましたが、
父は工場で製造の指導者的立場だったことが影響したのか、
最終的には入隊が免除(猶予)されたということです。
父が入隊予定だった部隊は、戦後シベリアに連れていかれたと聞きました。
あの時、父が入隊しシベリアに行っていたら、父は日本に帰ることができず、
私たち兄妹もこの世に生まれていなかったかもしれないと思うことがあります。
一方、母は三角町で生まれ育ちました。
戦時中は、空襲の度に防空壕に逃げ込んでいましたが、避難している際、
戦闘機から発射された機関銃の弾が防空壕の扉を貫通し、
扉の近くにいた数人が亡くなったと話していました。
このように、多くの方の犠牲があって日本は復興・発展し、
今の平和な生活ができていると思っています。
熊本市 橋本さん(90代)
1932年生まれの私は、12〜13歳の時に空襲を経験しました。
熊本市への空襲は1944年後半から1945年にかけて頻発し、昼はグラマン戦闘機、
夜はB29といった具合です。
アメリカ軍機が飛来する回数は数えきれないくらいの頻度でした。
当時、中学生となった私は、学校の指示のもと熊本市中心部にあった校舎には通わず、
自宅のある川尻から歩いて30分ほどの田畑でコメや麦を栽培することに
従事していました。
その際、空襲警報が周囲に鳴り響くと、近くを流れる緑川にかかる橋の下に
逃げ込んでいました。
戦闘機は私たちから操縦士の顔が見えるくらいまで降下してきて、
「ダッダッダッダッ…」と機銃掃射してきていました。
死と隣り合わせの状況が続いていましたが、相次ぐ空襲で、
なぜか怖いという感覚は無くなっていて「また来たか」という感じになっていました。
また、夜の空襲ではアメリカ軍機が空の上から建物に油のようなものをまいた上で、
火をつけていました。
油のようなものの影響なのか、火がついた家は一瞬にして炎に包まれていました。
当時は、空襲から身を守るため、玄関のドアや窓などにカギをかけることはなく、
夜中でもすぐに家を飛び出して、防空壕に逃げ込めるようにしていたことを
今でも覚えています。
戦争を経験して今いえるのは
「戦争で一番かわいそうなのは、一般市民である。」
このことです。
熊本市 男性(20代)
長崎に住む祖母(90) は10歳の時に長崎市で被爆しました。
祖母は毎年、原爆が投下された8月9日の平和祈念式典を見るたびに、
涙を流していましたが、祖母の口から戦争の話を聞くことはほとんどありませんでした。
しかし、10年前 私が高校生の時です。
地元新聞社が主催した「被爆体験を伝える会」で、祖母が自分の経験を語ったのです。
なぜ語ったのか。
祖母は「戦争を経験している人が減ってきている。
きちんと戦争の現実を伝えていきたい。」とその思いを話してくれました。
その時に聞いた内容を、伝えたいと思います。
1945年8月9日午前11時すぎ。
当時10歳だった祖母は、爆心地から約10キロ離れた場所に住んでいたそうです。
祖母は、両親の代わりに3歳の妹の面倒をみながら、ほかの子どもたちと一緒に
遊んでいた時だったといいます。
ピカッという閃光と同時にものすごい風に襲われ、抱えていた妹ごと、
吹き飛ばされたそうです。
気が付くと祖母の腕は火傷したように熱くなり、妹は何かにぶつけたのか、
頭から血を流していたといいます。
さらに、上空を見ると青く晴れ渡っていた空が真っ赤に染まり、
地上を見ると血だらけの人や、火傷した人たちが
ぞろぞろと歩いていくのが見えたといいます。
被爆した人たちからは「水を飲ませてください」との声が聞かれ、
周囲の人が、近くの井戸から水をくみ、歩いてきた人たちに
水を飲ませたり、体にかけたりしていたそうです。
2日後、爆心地の近くに連れられて行くと、そこには恐ろしい光景が
広がっていました。
町には煙が上がり、町全体が黒くくすぶっている状況で、
人や牛や馬が、あちこちに倒れたままだったといいます。
今も原爆の後遺症に苦しめられる祖母が繰り返す言葉。
それは「戦争を2度としてはいけい」ということです。
熊本市 柴田さん(60代)
2016年、熊本地震で築約130年の自宅は大規模半壊。
壁などに大きな被害が出ました。
その片付けの際に見つけた、2階の梁から飛び出た金属の物体。
後に、熊本大空襲で戦闘機から機銃掃射された際の機銃弾が
梁にめり込んだものだと分かりました。
他にも地震で被害を受けた材木を割ってみると、
その中から同じような機銃弾が出てきました。
熊本地震の後に亡くなった父は、熊本大空襲の時10歳。
空襲は「本当に怖かった。」と話し、
戦後、自宅の庭を掘りかえしたら、機銃弾がたくさん出てきたとも言っていました。
ただ、父から空襲の詳しい話を聞くことはありませんでした。
今、考えると父にとって戦争は忘れたい記憶だったのかもしれません。
戦後80年。
改めて材木に残っていた弾を持ってみると、その重さに
「このような弾が、人間に当たっていたら、ひとたまりもなかったと思います。
父も本当に怖かっただろう。」と感じています。
熊本市 渡辺さん(70代)
この家族写真に写る男性が、1942年当時、
霞ヶ浦海軍航空隊(茨城)に所属していた義父(当時26)です。
義母(当時24)に抱えられているのが、私の夫(当時5か月)です。
この写真が義母に届いて、約1か月後の5月19日。
義父は家族に宛て次のような手紙を記していました。
「決して私のことは心配するな。総ては運だ。悪運は強い、安心して居て呉れ。」
「旬日中に前進する。」(原文のまま)
この後、義父はパイロットとして航空母艦「飛龍」に搭乗し、
ミッドウェー島へ向かいました。
しかし、6月5日、義父が乗る「飛龍」はアメリカ軍の攻撃を受け沈没。
帰らぬ人となりました。
その年の11月、佐世保で執り行われた「合同海軍葬」
参列した義母が涙を流すと「軍人の妻は涙を流すな。」と叱責されたそうです。
大切な人の死を悼むこともできない時代を生き抜いた義母は、
いつも「戦争は家族を奪う。」と話していました。
そんな義母が、捨てきれなかったのが義父の海軍制帽です。
結婚して数か月で失った義父を、少しでも感じていたかったのだと思います。
また、義父の遺骨が戻ってこなかったことから、
義母は「まだ海のどこかに主人の体がある。」と語り、
「海を見ると悲しくなる。」と口癖のように話していたことが強く印象に残っています。
熊本市 山口さん(60代)
*手記を基に掲載
1930年生まれの亡き母に30年ほど前に聞いた話です。
戦時中で思い出すことはと聞くと「とにかくひもじかった。」と言っていました。
食糧難の時代、食事は大根やカボチャの雑炊がほとんどで、とにかく空腹だったそうです。
「唐芋ご飯」もありましたが、それも芋にご飯粒が少しくっついているぐらいだったと
いいます。
何度か、近くの田んぼで田植えの手伝いをしたときに、
農家の方からもらった白米だけのおにぎりが、とても美味しかったと話していました。
当時、国民学校(熊本市)の運動場は、唐芋畑にされ、
校舎は陸軍の兵隊宿舎として使われていたことから、
子どもたちは近くの神社や寺に分かれて勉強していたそうです。
ただ、上級生(現在の中学生)は草取り作業や、竹槍訓練などで
ほとんど勉強らしい勉強はできなかったと、当時を振り返っていたことが
記憶に残っています。
熊本市 山口さん(60代)
*手記を基に掲載
当時15歳の亡き母が語ってくれた、1945年8月10日の熊本大空襲の話です。
その日、母と友人は2人で学校(熊本市)の運動場の唐芋畑で草取りをしていました。
その時、突然 南の方から低い音で「ブーン」という飛行機の音が聞こえてきたかと思うと、
それと同時に「空襲警報!」と叫ぶ声が聞こえました。
ただ、母と友人は突然の出来事に、どこへ逃げればいいのか分からず、
その場に立ち尽くしてしまいました。
するとその姿を見た兵士の一人に、
「おい、こっちだ。こっちに来い。ここに入れ。」と、
軍用に整備された防空壕に入れてもらい、命を救われたそうです。
しばらくして、防空壕から出ると小学校の校舎はものすごい炎に包まれていて、
あの時、防空壕に逃げ込めなかったら命はなかっただろうと
当時のことを語っていました。
また、この空襲では、
母のもう一人の友人も壮絶な経験をしていたそうです。
その友人の方は、空襲から逃れようと、幼い妹2人を連れて
自宅の防空壕へと急いでいました。
3人の後ろからは、戦闘機がバラバラバラと機銃掃射しながら
ものすごい勢いで近づいてきたといいます。
友人は、右手と左手それぞれに妹の手を握りしめ、
2人を引っ張りながら無我夢中で走っていました。
戦闘機は、大きな音をたてながら頭上を越えていきます。
その時、ハッと気づくと、2人の妹を引いているはずの片方の手だけが
軽くなっているのに気づいたそうです。
慌てて振り向くと、1人の妹の片腕だけを握って走っていたのです。
妹は一命を取り留めたものの、片腕を失いました。
熊本大空襲から80年。
これが、実際に身近であった戦争の話です。
玉名市 森さん(80代)
1945年8月の記憶です。
3歳半だった私は、新町(熊本市)*当時:新細工町に住んでいて、
この日は2階で3歳上の兄と一緒に遊んでいました。
その時です。
空襲警報のサイレンが鳴り響いたかと思うと、
私たちが庭にある防空壕に避難する間もなく、
空から「バッバッバッ」と機銃掃射が始まりました。
攻撃してきたのは、おそらくB29の護衛機数機だったと思います。
私が兄に抱きしめられて身動きができない状態でいると、
機関銃の弾が家の窓ガラスを貫通し、
私たち兄弟がいた場所から約1メートル離れた場所にある
タンス2棹(さお)を打ち抜いたのが分かりました。
その後、近くの学校(現:西山中学校)が爆撃を受け、
燃え上がる建物を窓から乗り出して見ていました。
この日のことは、あまりの恐怖に今でも記憶に鮮明に残っています。
私が戦争当時使っていた「防空頭巾」と共に、
父が持っていた「千人針」も戦争の記憶として必要と思い、今も保管しています。
熊本市 緒方さん夫妻(90代と80代)
私たち夫婦は終戦の時、10歳と9歳。
2人共に今の城南町(熊本市)に住んでいました。
終戦までの1944年〜1945年にかけては、激しい空襲に遭いました。
アメリカ軍の戦闘時は緑川の上を低く飛んできては、機銃掃射を繰り返しました。
戦闘機から発射された弾は雨のように降り注ぎ、一旦上空を通過したかと思うと、
Uターンをしてきて再び攻撃をしてきます。執拗な攻撃でした。
防空壕に逃げても、銃撃される音が聞こえ続けていました。
恐らく、私たちが住む地区には「隈庄飛行場」があり
近くの竹林などに燃料や弾薬などが隠されていたため、
それを狙っていたのだろうと思います。
私たちの親の話では、農作業をしているときに空襲があると、
農作物の大きな葉っぱの下など、いろいろな場所に隠れながら
防空壕を目指して逃げていたといいます。
今思うと恐ろしい話ですが、子どもの頃の自分たちには、
まだ「怖い」という感覚がありませんでした。
終戦後、「隈庄飛行場」で軍用機とその格納庫が
数日間かけてアメリカ軍によって焼却処分されていたのを見た時、
子どもながらに「戦争に負けたから仕方がない」と
感じていたことを覚えています。
福岡市 石坂さん(60代)
*石坂さんは八代市出身 *手記を基に掲載
1943年5月。
陸軍から旧王子製紙(現王子製紙 及び現日本製紙の前身)に対し、
マニラ(フィリピン)に製紙工場開設の命令があった。
軍としては、現地で新聞用紙を製造し宣伝戦に協力せよというものだった。
当時、宣伝は重要な作戦で、軍としては紙は鉄砲玉と同じくらいの必需品で、
できるだけ早く紙の製造供給してもらいたいとの意向だったようだ。
元々、旧王子製紙では紙の製造は国内で行い、
現地へ持っていく方が良いとの考えだったが、
この軍の要請で一気にマニラ進出への舵を切ることになった。
マニラ工場建設には、建設操業要員として国内工場から希望者を募った結果
77人が集まり、その内の3割強となる27人が熊本県にあった八代工場(現日本製紙)と
坂本工場から選ばれた。
この建設操業要員は、1943年8月から翌年3月までの間に船で随時赴任していったが、
アメリカ軍の潜水艦による攻撃が活発化する中、魚雷攻撃の危険と背中合わせの
命がけの渡航となった。
また、計画を難航させたのが徴兵による人手不足に加え、
アメリカ軍の潜水艦攻撃による輸送船不足が重なり、
機材がマニラにスムーズに届かなくなっていた。
さらに、1944年9月には、機材を載せた輸送船がマニラ港に入港したが、
アメリカ軍の空母艦載爆撃機によって空襲を受け湾にいた船のほとんどが沈没し、
建設機材の半分が海に沈んだ。
この状況に、マニラ工場の所長は建設操業要員を前に
「敵の攻撃で、機材の半分以上が沈められ、日本から機材を取り寄せる望みもない。
また、敵が進攻してくる日も遠くない。
この地で死を覚悟せざるを得ない状況である。」と話し、全員に緊張が走った。
その上で、所長は「絶望的な状況だが、死ぬ前に紙を作ろう何とかやり抜こう」
と提案し一同が同意した。
しかし、その建設は敵の空襲と上陸が迫りくる中で始まった。
紙の製造開始目標は3か月後の1944年12月20日。
ありあわせの機械部品をやり繰りしながら、昼夜を問わない作業を進めた。
12月19日には、陸軍から業務中止命令が出されたが、
紙の製造までもう一歩のところまできていたことなどから、
“紙を作る”計画は続行された。
その結果、目標だった12月20日には間に合わなかったが、
4日後の、24日午後4時に紙の製造が可能となり、
マニラで“紙を作る”という願いは達成された。
この日は建設操業要員77人全員で祝賀会を開き、
各々がかくし芸を披露する中、ブタ1頭を食膳に、ラム酒を楽しむなど
過酷な日々の中で貴重な楽しいひと時となった。
しかしその後、赤紙令状が旧王子製紙に一括して送られてきて、
翌年の1945年1月7日には全員が入隊。
それと合わせるかのように、アメリカ軍もルソン島(フィリピン)に進攻してきた。
建設操業要員の入隊後の状況は分かっていないが、
77人のほとんどが戦死し、日本に帰還できたのは5人のみだった。
72人がいつどこで戦死したのかもわからぬままだ。
戦死した一人には、私の祖父もいる。
熊本市 足立さん(80代)
*手記を基に掲載
終戦までの1944年〜1945年にかけては、激しい空襲に遭いました。
アメリカ軍の戦闘時は緑川の上を低く飛んできては、機銃掃射を繰り返しました。
先日、菊池市泗水町を訪れた際、
1945年当時、私が国民学校4年生だった頃の記憶が蘇ってきました。
戦況が厳しさを増す中、私たちの日常は午前中の農作業と午後の川遊びに
費やされていました。
そのような状況下、農家の納屋の2階には兵士たちが通信機器を持ち込み、
アメリカ軍の上陸に備えている様子でした。
珍しい通信機器に興味津々の私は、毎日見せてもらいに行くのが
楽しみでなりませんでした。
特に、島根県出身のある兵士の方とは親しくしていただき、
色々な話を聞かせていただく中で、
「次の時代は君たちが担う。頑張ってほしい。」と励まされた時のことは、
子ども心ながらにも身が引き締まる思いがしたのを覚えています。
また、泗水町には特攻隊の中継基地であった「菊池飛行場」があり、
白い絹のマフラーを身につけた4〜5人の特攻隊員たちがトラックで移動中、
私たちに懸命に手を振る姿が、私の目には格好良く、強く印象に残りました。
しかしその時、学校の先輩から「あの人たちはニコニコしているけど、
やがて死なすとばい。」と聞かされた言葉も、今でも深く心に刻まれています。
それでも私は、トラックに乗って行く特攻隊員たちの後を追いかけ、手を振り続けました。
その道は、80年の時を経た今も変わらずそこにあります。
熊本市 伊藤さん(70代)
*手記を基に掲載
2020年に亡くなった1919年生まれの母は、戦時中、多くの人がそうであったように、
自身を「軍国少女」と語っていました。
母は陸軍の要請により、1938年10月から1943年までの間、
北朝鮮窒素永安病院、山西省太原兵站病院、そして江蘇省鎮江陸軍病院
(病院名はいずれも母の手記に記されていたまま)に看護師として勤務いたしました。
昼間の勤務と三日ごとの夜勤という大変な日々だったようですが、
若かった母は、国のために働くことに誇りを持ち、精一杯努めていたと話していました。
山西省太原の病院の中庭には多くのリラの木が植えられていて、
長く厳しい冬を越え、4月の終わり頃になると、いっせいに薄紫の香りの高い花が
咲き始めたそうです。
傷病兵たちの枕元にその花を飾り、慰めていたことなど、
当時の鮮烈な印象は生涯忘れられない母の原風景となっていたようです。
ある傷病兵の方からは、退院後に短歌や写真が送られてきて、
手紙のやり取りもあったそうですが、シベリアへ出兵するという知らせを最後に、
連絡が途絶えてしまったと聞いています。
おそらく、そのまま戦地で亡くなられたのでしょう。
終戦後、母は趣味で短歌を嗜んでおり、戦争時代の思い出を詠んだ歌も残っています。
『春おそき戦野の朝けリラ咲けば
明日なき傷兵の枕辺に活く
カルテ見れば未だうら若き傷兵なりき
老いの如くに声もかすれて
看取りせし かの日ははるかわが庭に
リラ咲き匂へば 恋し北志那』
青春時代を中国の戦地で過ごした母にとって、
それらの場所は思い出深いものだったようですが、
「あの時の病院は、中国人を追い出して使っていたのかなぁ。」と、
ふと寂しそうに語っていました。
熊本市 石坂さん(90代)
1945年春、私が9歳の時の出来事です。
あの日は、どこまでも広がるような美しい青空でした。
当時、私は熊本市の手取神社の近くに住んでいましたが、
突然、「ブルンブルン」という飛行機の音が近づいてきたかと思うと、
旧日本軍の飛行機が信じられないほど家のすぐ近くまで降りてきたのです。
その時、家にいた母と私が空を見上げると、
飛行機の操縦席には見慣れた顔がありました。
それは、いつも私と遊んでくれていた隣のお兄さんだったのです。
白いマフラーを身につけ、満面の笑みで私たちに手を振ってくれました。
一度だけでなく、飛行機は上空を旋回し、再び私たちの前で手を振ってくれた後、
まるで別れを告げるかのように主翼を上下に揺らしながら、
西の空へと飛び去っていきました。
幼い私は、お兄さんの凛々しい姿を見て、「強くて偉い人だ」と憧れましたが、
母がその飛行機をじっと見つめ、涙を流しているのを見て、
なぜ泣いているのだろうと不思議に思ったのを今でも鮮明に覚えています。
数年後、あの時手を振ってくれたお兄さんが、特攻隊員として
戦死したことを知りました。
当時の私には、優しかったお兄さんがそのような運命を辿るとは
想像もしていませんでした。
これまで誰にも話したことのない記憶ですが、
この出来事を語り継いでいく必要があると感じ、今回お話しました。
熊本市 伊藤さん(70代)
*手記を基に掲載
私の両親は、戦争という激動の時代を青春時代に過ごしました。
1912年生まれの父は生前、折に触れて戦争の体験を私に語ってくれましたが、
今回はその貴重な記憶を文章にしたいと思います。
父は普段、戦争の話を積極的にすることはありませんでしたが、
お酒を飲むと、その壮絶な体験を語ってくれました。
二度の徴兵を受け、最初は北方の地へ、二度目は南方のフィリピンへ。
そこで終戦を迎えたそうです。
戦時中、上官から敵か現地人か分かりませんが、殺害するよう命令が出そうになった際、
「まっぴら御免だ」と逃げ出したことがあったと聞いています。
父は、直接手を下して人を殺めることはなかったと話していました。
しかし、フィリピンでのアメリカ軍との激しい攻防は、想像を絶するものだったようです。
雨あられと降り注ぐ銃弾の中、ふと気づくとすぐ隣にいた仲間が蜂の巣のように
銃弾を浴びて亡くなっていた、と。
また、積み重なった多くの遺体を乗り越えながら進んだこともあったそうです。
ある時、父はこんな話もしてくれました。
小隊を率いてくぼ地に潜んでいた時、「なおれ、なおれ」という声が
どこからともなく聞こえてきたというのです。
「なおれ」とは、私たちの方言で「場所を移せ」という意味です。
不思議に思いながらも、その声に従って移動した直後、
まさに元の場所へ激しい集中砲火があったそうです。
九死に一生を得た瞬間でした。
父は、いつも自分の無事を祈ってくれていた母親が
助けてくれたのだろうと語っていました。
戦況が悪化するにつれて食料は尽き、皆が飢えに苦しみ、
あらゆるものを口にしたといいます。
時には、蛇を捕まえて焼いて食べたこともあったそうです。
そうして森の中を彷徨いながら、なんとか生き延びていたのですが、
もう限界だと思った頃、アメリカ軍に捕らえられました。
もう少し遅れていたら、命を落としていただろうと父は言っていました。
しばらく捕虜収容所での生活を送った後、父は無事に帰国することができました。
しかし、故郷に戻った時、まだ若かった父の髪は真っ白になっていたといいます。
父の生還は、本当に奇跡としか言いようがありません。
父は戦争体験を語ると、最後に、いつもこう言っていました。
「あんな巨大な国と、ばかな戦争をした。戦争なんか、絶対にしてはいかん。」
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