
※証言やいただいた文章に基づいて記載しています
菊池郡 中山さん(40代)
亡き祖母から聞いた、忘れられない光景についてお伝えします。1929年生まれの祖母は、1945年8月9日当時16歳でし...
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
玉名郡 西田さん(50代)
1931年生まれの私の母から聞いた話です。
母が小学校に通っていた頃は、モンペに防空頭巾をかぶり、
救急袋とランドセルを肩にかけて登校するのが日常の姿だったそうです。
母の父親の仕事の関係で、小学校6年生の頃には
長崎県の佐世保で暮らすことになりました。
進学のため夜学にも通っていた母は、空襲に備えて街の各家庭の電灯が黒い布で覆われ、
光が漏れないようにしていたため、夜道は真っ暗でとても心細かったようです。
そんな中でも、楽しい思い出もあったそうです。
それは、海軍の指導で行われた手旗信号の検定に一生懸命取り組んだことでした。
女学校に入学する頃には、戦争が激しくなり、
母も軍需工場へ動員されるようになりました。
敵機は昼夜を問わず襲来するようになり、けたたましいサイレンの音が鳴り響くと、
人々は一目散に防空壕へ駆け込んだそうです。
そして1945年6月28日。
いつものように床についていると、突然家の中が昼間のように明るくなりました。
外を見ると、高い空に照明弾が落とされ、
街全体が真昼のように明るく照らされていたのです。
その後、街はみるみるうちに火の海となりました。
これが佐世保大空襲です。
逃げ場を失い右往左往する人々を見ながら、空から落ちてくる焼夷弾を避け、
山にある大きな壕を目指して必死に走りました。
道の両側の家々が燃え盛る中での避難は、体を熱く焼き、
防火用水のタンクの中に何度も飛び込んだそうです。
やっと2000人ほどが避難できる防空壕にたどり着くと、
中では大勢の大人たちが次々と子供の名前を叫び、我を忘れて探し回っていました。
恐ろしい一夜が明け、戦火が収まると、
自分の体のあちこちに火傷を負い、着ていた洋服も焼け焦げているのを見て、
涙も言葉も出なかったことを覚えていると母は語っていました。
そのような状況下でも、多くの人々は必ず勝利すると最後まで信じて
頑張っていましたが、8月15日に終戦を迎えました。
勝利を夢見て、つらいことや苦しいことを我慢して頑張ったのは何だったのかと
思った反面、毎日毎日おびえて暮らす必要がなくなったことに気づいたそうです。
戦争を知らない皆様に、戦争は二度と起こしてはならないということを
どうか忘れないでほしいと、母は願っています。
熊本市 山本さん(60代)天草市 石原さん(50代)
天草市栖本町では、今も午後5時になると、どこからともなく鐘の音が聞こえてきます。
その音は、不知火海を見下ろす高台に佇む円性寺という寺から響いてくるものです。
しかし、この鐘の音は、1940年代に一度途絶えてしまいます。
太平洋戦争開戦が近づく中、政府が武器の原料とするため、全国の寺院に対し
梵鐘などの金属類の供出を命じた「金属類回収令」によるものでした。
円性寺も例外ではなく、長年地域の人々に親しまれてきた時の音を
手放すことになったのです。
終戦後、全国的に梵鐘を再建しようという動きが起こります。
その一つに、戦時中に貨物船や軍艦なども建造していた日立造船(現在のカナデビア)
がありました。
カナデビアに残る当時の資料には、
「何百年間も平和を願ってきた梵鐘が鋳潰され軍需製品となり、
それがまた梵鐘に戻ることは仏教でいう輪廻を物語るものだ」と記されています。
終戦とともに軍需製品から産業部門へと転換を図っていた日立造船では、
航空母艦「ほうしょう」や「かつらぎ」が解体され、
その合金であるスクラップが梵鐘の材料の一部として使われることになったのです。
この日立造船の取り組みに共鳴したのが円性寺でした。
現在の住職である石原史博さん(55)によると、
1948年、奈良の法然寺で住職をしていた祖父が天草に戻るとすぐに
梵鐘再建のための寄付を募りました。
石原さんは、祖父のこの迅速な行動は、法然寺で既に
日立造船と共に梵鐘の再建に携わっていた経験から、
人の心に響く鐘の音の大切さを深く認識していたからではないかと考えています。
寄付は地域の人たちを中心に約1000人から集まり、
祖父が天草に戻ってから約2年後の1950年、ついに梵鐘は再建されました。
これだけの人から寄付が集まった理由を石原さんは、
当時、多くの人が戦争で子どもや親を亡くしていたのではないかとし、
そのような状況の中で「鐘の音が聞こえることで供養となり、みんなが救われると
思ったのではないか」と、その当時の人たちの思いを推し量ります。
平和への願いが込められた円性寺の鐘は、
今も変わらず、静かに時を告げ続けています。
熊本市 米村さん(60代)
去年93歳で亡くなった母は、熊本港(熊本市)近くで生まれ育ち、
10人以上の兄妹がいました。
私が小学生の頃、母が戦争について語ってくれたのは、
1945年の熊本大空襲のことでした。
「あの日の夜空の明るさは、例えようがないくらい美しかった」と。
母は戦争の恐ろしさではなく、空襲の光景を「美しかった」という表現で
私に伝えたのです。
恐らく空襲の被害の大きさを伝えたかったのだと思います。
しかし、幼かった私には「その空襲で多くの人が亡くなったのに」と、
複雑な気持ちになったのを覚えています。
一方で、母が住んでいた地域では空襲の被害は少なかったそうですが、
一番下の妹が3歳の時に、不発弾が爆発して亡くなったと聞きました。
当時、私もまだ子どもで、その話を真剣に聞くことができませんでした。
しかし、私が親となり子を授かり、長男が生後間もなく病死し、
さらに当時20歳だった次女が事件で命を奪われたことで、
母が妹を亡くした時の苦しみが、ようやく理解できた気がいたしました。
今振り返ると、母に対してもう少し思いやりを持つべきだったと痛感しています。
妹を失った時の母の苦しみは、想像を絶するものだったでしょう。
戦争では、熊本でも多くの人たちが亡くなりました。
戦争は、全ての人を不幸にするものだと思います。
今の若い世代の方々には、かつて戦争という時代があったことを
決して忘れないでほしいと願っています。
何よりも、命を大切にしてほしいと心から願っております。
熊本市 甲斐さん(70代)
1916年生まれの父が書き留めていた手記です。
以下、手記から抜粋した内容を記載します。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
大東亜戦争(太平洋戦争)について
1941年11月、次の作戦のため台湾で待機していました。
これまでの支那戦線とは異なり、機械化が進んでいました。
我々は最強の海兵部隊として、敵前上陸を専門とする部隊でした。
高雄に集結し、待機中に戦闘準備を整え、その後、海上待機となりました。
12月5日には出陣式が行われ、祖国に最後の別れを告げました。
12月7日、輸送船団は準備が完了した様子で、海上に堂々とした姿を現していました。
12月8日、大本営から発表がありました。
「長きにわたる経済封鎖、あるいは対支戦における米英の対支支援などから、
米英との戦闘開始」とのことでした。
12月17日、馬公(台湾)を秘かに出港し、60隻以上の大輸送船団と
海軍の護衛艦、重巡洋艦、駆逐艦、飛行隊が堂々とフィリピンへと進撃しました。
シソン(フィリピン)付近にて進撃中、米軍の貨物輸送車を鹵獲(ろかく)しました。
その際、不運にも我が海軍の爆撃機が上空に現れ、鹵獲した輸送車を
敵の退却と誤認し、三発の爆弾を投下しました。
爆弾が投下されるのを確認した我々は、咄嗟に側溝に身を伏せましたが、
直後に凄まじい爆発が起こりました。
この爆発により、多くの仲間が犠牲となり、現場は一瞬にして修羅と化しました。
痛恨の極みであります。
その後、間もなくして、同じ海軍爆撃機が再び現れ、上空を旋回しておりました。
恐らくは、誤爆を詫びにきたものと思われます。
その後、爆撃機は山陰へと消えていきました。
後に聞いた話によりますと、その爆撃機の操縦士は、今回の事態の責任を取り、
自爆されたとのことです。
さて、1942年2月、我々はジャワ島攻略へと向かいました。
40隻余りの船団は、軍艦「足柄」「羽黒」といった重巡洋艦などに護衛され、
南へと進撃を開始し、無事に赤道を通過することができました。
そして、スラバヤ沖海戦において、我が海軍は疾風の如く前進いたしました。
南海の深夜に砲火が閃き、夜が明けて輸送船から見ると、
敵の海軍兵士が海面を漂っておりました。
どうやら、我が海軍によってイギリス・オランダ東洋艦隊は全滅したようです。
3月には、ジャワ中部のクラガンに敵前上陸を果たしました。
敵は抵抗のため多くの兵力を配備しておりましたが、幸いにも友軍の被害は
僅少であったと聞き、安堵しました。
3月8日、我が軍は満を持しての総攻撃を開始いたしました。
さらに、チモール島への進撃も開始され、我が部隊はマレー半島へ転出のため、
バタビヤ港を出港し、4月26日にシンガポールへ入港しました。
部隊は上陸専門の任務についていましたので、
アメリカ本土への上陸作戦が計画されているのではないかという話も出て、
毎晩厳しい警備が続く日々でした。
そのような生活が続く中、どこからともなく終戦の知らせが届きました。
祖国のため、命の敵に勝つまではと強く抱いていた気力が、
まるで泡のように消え去り、力が抜けて、とめどなく涙が流れました。
熊本市 竹原さん(60代)
実家から戦時中の写真などと一緒に、
ビルマでの戦いとみられる手記が見つかりました。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
1944年の暮れに第31対空無線隊への転属を命じられ、
翌年1月に重爆撃機に搭乗いたしました。
昭南(シンガポール)、金辺(プノンペン)などの各飛行場では、
熊本陸軍少年飛行兵学校(熊校)時代の少年飛行兵たちが下士官となっていて、
彼らは私に「ビルマへ行くことは生き地獄であり、死に行くことである」と語りました。
また、食糧事情の悪さや、制空権が完全に敵の掌握下にあるという厳しい状況も聞かされました。
3月、ビルマへ向かう道中は、昼間は密林に身を潜め、夜は屋根のない貨車に乗り、
時速5キロという速度での寂しくも悲しい鉄道移動でした。
その頃、第31対空無線隊はビルマから泰国(タイ)へ転進していて、
やがて5月にはさらに金辺(プノンペン)へと移動しました。
金辺(プノンペン)では、地上作戦の様相を呈しているさなか、
8月に天皇陛下の玉音放送があり、日本軍は無条件降伏しました。
その時、私は大声をあげて泣きました。
当時の金辺(プノンペン)での悲しみと痛みは、
今も決して忘れることはできません。
終戦後、先の見えない捕虜としての生活が始まり、
悲しみと苦しみに満ちた日々を送ることとなりました。
そのような耐え難い生活の中、武器解除・降伏式が執り行われ、
英国の将官の列席のもとに終了しました。
熊本市 村川さん(70代)
1922年生まれの父の戦時中の経験を綴った手記です。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
太平洋戦争に突入し、国民総戦闘員と云う。
1943年4月10日、現役兵として西部16部隊第1機関銃中隊に入隊。
同期の初年兵は総勢24人で、皆一目見ただけで屈強な体格の者ばかり。
私のような商家出身の者が、彼らと対等に厳しい演習や訓練に耐えることが
できるのだろうかと、不安が頭をよぎった。
入隊初日の昼食は赤飯で祝われ、午後は健康診断に軍隊用語の説明となった。
入隊して軍隊の規律並みに先輩後輩の厳しさを肌で感じ、
軍規という緊張感と常に隣り合わせの中で、軍隊生活を身をもって体験した。
この先は、困難な道のりが続くであろうと覚悟していて、
力の限り精進するのみと決意を新たにした。
親兄弟をはじめ、親戚の方々には「今度会う日は、白木の箱だろう」と覚悟を伝え、
家を後にしていた。今はただ、軍人としての本分を尽くすことだけを心に誓っている。
心身の猛鍛錬は覚悟の上だったが、演習の過酷さ、喉が焼けるように辛い思いをしたが、
なんとか人並みに気持ちを奮い立たせ、明日への希望として耐え忍ぶ日々だった。
そして、忘れもしない7月18日の夜。
点呼の前に、初年兵係の方から私たち全員に早めに集まるよう指示があった。
班長も普段とは様子が異なり、顔色も悪く、何か言い出しにくいような雰囲気だった。
そのような状況の中、班長の口から語られたのは、戦友との別れについて。
現在、ブーゲンビル島で苦戦を強いられている部隊への補充要員として
派遣される兵士たちの氏名が発表された。
名前が呼ばれたのは、初年兵24人のうち14人。
私の名前は呼ばれなかった。
入隊から100日ほどしか経っていなかったが、苦楽を共に助け合ってきた戦友。
その別れは、言葉では言い尽くせないほど辛いものだった。
また、家族との連絡が禁じられていたため、ある戦友は私に家族への連絡を託してきた。
またある者は涙ながらに「自分には母親が1人しかいない。ほんの少しでもいいから、
母親に会うことはできないだろうか」と訴えていた。
そして、7月23日の夜10時。
戦地へ向かう兵士たちの壮行会が行われた。
真新しい野戦服に身を包み、装備品を手に持った戦友たちは、言葉も出ない様子に見えた。
一応の挨拶が終わると、中隊長を先頭に東門に向かいその後、列車に乗車した。
先頭車両の方から笛が連続3回聞こえたかと思うと、列車は汽笛も鳴らさず動き始め、
列車は黒い影となり、熊本駅方面に消えていった。
熊本市 村川さん(70代)
1922年生まれの父の戦時中の経験を綴った手記です。
*原文から抜粋し、一部書き換えています。
1945年7月1日の真夜中。
熊本師団司令部(熊本市)にいた時のことだった。
突然、警戒警報のサイレンが鳴り響き、すぐに空襲警報にサイレンの音が変わった。
その2〜3分後には熊本駅方面から最初の爆撃機が飛来し、
低空飛行のまま立田山(熊本市)の方向に進んで行った。
立田山には仮の兵舎があり、それを狙ったと思われる。
立田山の方で、2〜3か所から火柱が上がったかと思うと、次の爆撃機が飛来。
その後も2〜3分間隔で爆撃機が次々と飛来し、上空から照明弾を落下し
熊本市内は、満月の夜のように明るくなり、恐怖を忘れあ然となった。
その後も、爆撃機は目前を低空で通り過ぎ白川沿いを北上し、
水前寺、大江方面は火炎と黒煙に包まれた。
当時、在営部隊はほとんど各地に疎開していて、対空射撃はできず、
敵機の1時間以上に及ぶ無差別攻撃で、付近一帯は焼きつくされた。
翌日、坪井川沿いに広町から藤崎宮の鳥居をくぐると、
焼け跡はまだ生々しく、火が消えずにくすぶっている建物がたくさんあった。
そんな中、一番困ったのは、なんとも表現しがたい焼夷弾の匂いであった。
その後、橋から白川を見ると、焼夷弾の殻が無数に散乱し、
中には2〜30キロくらいの小爆弾も見えた。
アメリカ軍は橋を標的にしたのかもしれないと思った。
あの時の記憶はなくならない。
熊本市 秦さん(80代)
1910年生まれの私の父が、1987年頃に孫へ戦争体験を語った際の
録音記録をまとめたものです。
父は1941年9月に2度目の召集令状を受け、小笠原(東京都)へ向かいました。
その3か月後には太平洋戦争が始まり、隊員たちは「いつアメリカ軍が攻めてくるのか」と
不安な日々を送っていました。
翌1942年には、小笠原から北海道へ移動することになりました。
これは「北からアメリカ軍が攻撃してくる可能性に備えよ」という命令によるものでした。
父が配置されたのは、千島列島の東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)でした。
敵の攻撃を食い止めることを任務とし、3年余りが過ぎた1945年8月15日、終戦を迎えます。
その時、父は戦争に負けたことは悔しかったものの、やっと故郷に帰れると安堵したそうです。
しかし、終戦からわずか3日後の8月18日午前0時、突如として激しい砲撃が始まりました。
旧ソ連軍が上陸してきたのです。耳をつんざくような大砲の破裂音。
不意を突かれた攻撃でしたが、元々アメリカ軍の攻撃に備えて築いていた陣地があったため、
応戦の準備はできていました。
私たちは「勝たないと日本に帰れない」という強い思いで応戦し、戦いを優勢に進めましたが、
日本がすでに世界に向けて敗戦を表明していたため、戦争を続けることはできず、
降伏という決断に至りました。
旧ソ連軍に武器を没収され、父は1か月間占守島に留め置かれました。
そして1945年9月12日、ロシア軍の船に乗せられ、
「これでやっと帰れる」と思ったのも束の間、船は故郷とは反対の北へ北へと進んで行きました。
船が到着したのは、一面真っ白な雪に覆われたシベリアでした。
上陸後、山奥へ連行され、過酷な強制労働の日々が始まりました。
港から約80キロ離れた山の上に設けられた捕虜収容所では、
旧ソ連軍から「お前たちはソ連の言うとおりに働くんだ」と命じられたそうです。
1年、 また1年と、重労働が課せられました。
ある時、「峠の道路の除雪をせよ」という命令を受け、父を含む30人ほどが
現場に連れて行かれましたが、猛烈な吹雪となり、除雪作業は全く捗りませんでした。
命令された仕事もできず、旧ソ連軍が迎えに来る見込みもないと考えた一同は、
雪の中を低い方へ低い方へと一列になって歩き始めました。
途中で偶然見つけた小さな小屋には1人のおじいさんが住んでいて、
凍り付いた豆のようなものを分けてもらい、飢えをしのぎました。
そして、そこからなんとか捕虜管理事務所にたどり着いた時、
思いがけない出会いが父の抑留生活に変化をもたらしました。
管理事務所で通訳をしていた人物が、なんと日本で父のことを知っていたというのです。
その後、その方から食べ物を分けてもらうなど、様々な助けを受け、
父はシベリアからモスクワへと移送されることになりました。
4年間の旧ソ連での生活を終え、父はようやく日本への帰国を果たすことができたのです。
菊池郡 中山さん(40代)
亡き祖母から聞いた、忘れられない光景についてお伝えします。
1929年生まれの祖母は、1945年8月9日当時16歳でした。
その日、祖母は島原(長崎県)の対岸に位置する宇土市(宇土半島)の小池という集落の
干潟に出ていたそうです。
その時、対岸から強烈な閃光が走ったかと思うと、間もなく地を震わせるような
「ど〜んっ」という轟音が全身を揺るがしたといいます。
それと同時に、空はまるで、あらゆる色の絵の具を溶いたように色鮮やかに染まり、
その光に照らされた空の様子を、祖母は「見たことない美しさだった」と語っていました。
その後、その轟音と空の変化が原爆によるものだったと知った祖母は、
あの時目にした光景を、奪われた多くの御霊が描き出した光と空だったのだろうと感じたそうです。
そして、その出来事を決して繰り返してはならない、決して忘れてはならないと、
幼い私に強く語って聞かせてくれました。
私がこの話を聞いたのは、今から約30年前。
祖母と一緒にいる際、テレビで戦争に関する話題が出るたびに、
自身の経験を様々な角度から話してくれました。
多くの話を聞きましたが、今回お伝えした光景についての話が、
今でも私の心に最も深く、鮮烈に焼き付いています。
熊本市 男性(40代)
昨年4月、私の祖母が100歳で他界しました。
祖母は20歳で熊本に来るまで広島で暮らしていて、生前は戦争の記憶を語ることを避けていましたが、
私が20歳を過ぎた頃、何気ない会話の中で、戦時中の体験を話してくれたことがあります。
その話によると、祖母は戦時中、広島城で出兵する兵士たちの名簿を作成する仕事に従事していて、
周囲には多くの兵士たちがいたそうです。
1945年8月6日、その日も朝早くから作業を続けていたところ、
突然強烈な光に包まれ、反射的に机の下に身を隠したとのことです。
原爆が投下されたのです。
意識を取り戻した時、周りは亡くなった兵士たちの遺体で埋め尽くされていたと祖母は語っていました。
家族との合流地点へ向かうため川を渡る必要がありましたが、橋は壊れていて、
泳いで渡るしかありませんでした。
それまで泳ぐことができなかった祖母ですが、必死の思いでなんとか川を渡りきったそうです。
しかし、川を泳いでいる最中に流れてきた大木にぶつかり、膝を怪我したと聞いています。
幸いにも、被爆による身体への直接的な被害はその膝の怪我だけで済んだそうです。
その後、無事に家族と再会できた祖母は、親戚であった祖父の家に身を寄せ、
後に祖父と結婚し、私の父が生まれました。
被爆三世である私も、父と兄弟と共に幸せな日々を送っています。
熊本市 福永さん(70代)
これは、熊本大空襲当時、熊本大学産婦人科に医師として勤務していた私の親族による記録です。
*原文を基に一部書き換えています。
1945年6月30日深夜(7月1日)、ついに熊本にも敵機が襲来しました。
その日私は、医局と実験室を守るため当直に就いていました。
病棟では他の医局員と数名の看護師が病院と患者を守っていました。
激しい数度にわたる敵機の波状攻撃は、防空も防火も全く役に立たず、
私たちはただ自分の命を守るだけで精一杯でした。
基礎教室も病院も全焼し、わずかに研究所と病院の鉄筋部分だけを残して、
一夜のうちにすべてが灰燼と化しました。
生き残った患者と病院の職員は、なんとか白川の堤防や河原に避難し、
ただひたすら夜明けを待ちました。
夜通し駆けつけてくれた先生は、産婦人科の全入院患者と職員の一団を見つけ、走り寄り、
爆撃の中、一晩中患者を守り抜いたことを激賞し、心からの感謝の言葉を述べられました。
この中には、前日に外科で手術をした看護師もいました。
彼女は一人で避難し、病院玄関の睡蓮の池に浸かり、
傷口を押さえながら夜通し同僚を待ち、助かりました。
教授と教室の皆は、このことを知り、驚きと喜びに包まれました。
阿蘇市 坂梨さん(90代)
戦争を体験した者として、最も記憶に残っているのは、阿蘇上空での空中戦です。
1945年、アメリカ軍による日本本土攻撃が始まり、
阿蘇地域でも緊張した日々が続いていました。
当時、私は青年学校に通う傍ら、防空監視所(宮地)に勤務していました。
私が監視当番だった5月5日午前7時半過ぎのことです。
東の方から爆音が聞こえ、眼鏡で空を覗くと小型機1機が見えました。
すぐに本部に「小型機一機、高度5000メートル、敵味方不明、東から西に通過」
と報告した瞬間、周囲には空襲警報が鳴り響きました。
すると、遥か大観峰上空に銀色の翼を連ねたB29爆撃機が12機飛来してきました。
私がその光景に恐怖を感じ、あ然としていると、東南の方向から日本軍戦闘機3機が現れ、
激しい空中戦が始まったのです。
日本軍機はB29の編隊に対し、上下左右から果敢に攻撃を仕掛けました。
それに対しB29も応戦。
日本軍機1機が被弾し、煙を上げながらも、そのままB29に体当たりをしたのです。
その瞬間、日本軍機は火だるまとなり、まるで花が散るように落下していきました。
そのまま墜落するのかと思っていたら、
機体から煙を吹き出しながらも、日本軍機がB29に体当たりをしたのです。
その時、火を噴いたB29は高度を下げながら東の方へ飛び去り、
数個の落下傘が確認できました。
わずか2分足らずの空での交戦でしたが、まるで長い時間が過ぎたように感じられました。
その後、消防団は落下したアメリカ兵の確保に向かい、
数名が捕虜となり、複数の遺体も発見されました。
それから3か月間、地域では空襲警報とグラマン戦闘機の奇襲に
おびえる日々が続きましたが、8月15日に終戦を迎えました。
現在、B29が墜落した地には、
兵士を追悼する慰霊碑「殉空之碑」が建立されています。
熊本市 坂本さん(102歳)
1923年生まれの私が終戦を迎える前、1944年に21歳で熊本から
満州の鞍山(あんざん)に住む姉夫婦のもとへ移り住んだ時のことをお話しします。
鞍山は鉄鋼生産が盛んで、製鋼所が多くありました。
そのため、アメリカ軍の攻撃目標となっていたようで、私が鞍山で働き始めた初日、
建物の中で空襲警報が鳴り響きました。
20〜30人の同僚は建物から飛び出して走り出し、私も夢中でその後を追いました。
どこに向かったのかは思い出せません。
空襲は激しく、熊本で経験した焼夷弾ではなく、爆弾が投下され、
直径約10メートル、深さ約2メートルの陥没穴がいくつもできていました。
そのような状況下でも、当時の日本政府は満州での仕事を奨励していて、
給料も本土の約4倍だったため、10代半ばの男性が数多く移り住んできました。
鞍山の街は「寮の町」とも呼ばれ、多くの日本人で活気に満ちていました。
しかし、太平洋戦争の戦況が悪化すると、働きに来ていた10代の男性たちは
戦地へと召集されていきました。
今でも覚えているのは、出征していく男性たちの表情です。
当時20代の私にはまだあどけなさが残る「男の子」といった感じで、
不安そうな気持ちが表れているように感じました。
彼らは日本本土から来ているため身寄りがなく、親や兄弟に出征する姿を見せることなく
戦地へ向かうのです。
私は、連日、鞍山駅から出征していく男の子たちを見送り続けました。
彼らがその後どうなったのかは分かりません。
終戦後は過酷な日々が待っていました。
給料は突然なくなり、生きていくために持っていた衣類などを売って食いつなぎました。
街の雰囲気も変わり果て、鞍山の街には旧ソ連軍が入ってきました。
この頃から女性は旧ソ連兵に襲われないよう、頭を丸刈りにしていました。
早く本土に帰りたい。この思いが叶ったのは、終戦から1年後のことでした。
私は子どもを授かった状態で、夫と二人、引き揚げ船(輸送船)に乗り込みました。
しかし、その船は客席があるようなものではなく、全員が甲板にいる状態でした。
8月ということもあり、直射日光を浴び続け、船の上で命を失う人もいました。
小さな子どもを抱えた母親が亡くなった時、何も分からず泣き続ける子どもたちの姿に胸を痛めました。
また、船で亡くなった人たちの遺体を海に落としていく状況は、今も脳裏に焼き付いています。
上益城郡 男性(40代)
幼い頃から祖父が戦争体験を話していました。
祖父は陸軍で衛生兵をしており、階級は中尉でした。
満州にいた祖父は、終戦間際の1945年。
旧ソ連参戦により決死の逃亡を経験しました。
仲間が銃で撃たれ、旧ソ連軍の追撃をかわしながら
「自分の心臓の音が耳で直接聞こえる」ほどの恐怖を味わったそうです。
土手に隠れ、「ここに来たら刺し違えてもやってやる」とナイフ軍刀を握りしめ
覚悟を決めた瞬間に旧ソ連兵の集団が引き上げたという話は、
祖父の体験の中でも特に印象的でした。
その後、祖父は中国語が堪能だったので、名前を変え中国人になりすまし、
日本へ向かう船の情報を待ち続け、福岡に帰り着くまで1年もの歳月を要しました。
戦後、生まれ育った大牟田福岡が焼け野原となり、多くの仲間が生きる意欲を失う中、
祖父は「俺はもう全てを失った、もう一度、いちから生きなおそう」と
三池炭鉱で働き始めました。
しかし事故に巻き込まれ、晩年は脳梗塞の後遺症に苦しみながらも
「戦争は二度とやっちゃいかん」と口癖のように語っていました。
熊本市 松尾さん(40代)
祖父は天草出身で、飛行機の整備士をしていました。
1945年のある日、爆撃機が飛来し、祖父は太腿を撃ち抜かれ、
広島市内の国立病院に入院することになりました。
当時、病院では皆が鈴をつけなければならなかったのですが、
祖父はそれをなくしてしまったそうです。
慌てて探すと、鈴はベッドの下に落ちていました。
祖父がベッドを降りて鈴を拾おうと這いつくばったその時、
空にはB29が旋回しているのが見えました。
B29は何か黒い物体を落とし、その瞬間、あたりは真っ暗になりました。
祖父の体の上にはベッドや瓦礫がのしかかっていましたが、
なんとか抜け出すと、周囲は瓦礫の山と化していたといいます。
近くには、面識のある看護師さんが倒れていました。
彼女の体は半分ほど埋まり、少し焦げていました。
祖父が彼女を引き上げると、体は半分くらいなくなっていたそうです。
祖父が声を張り上げて誰かいないか探すと、
一人の声が聞こえ、瓦礫の下には血まみれの人がいました。
その人を抱き抱え、さらに人を探して歩き続けましたが、
抱えていた人は亡くなっていたようです。
喉が乾いてたまらず、水を求めて歩いていると、雨が降ってきて、
落ちていた容器に雨水を貯めましたが、
それは黒い水だったので飲むことができませんでした。
次第に窪みには黒い水が溜まり、
血塗れの人々が這いつくばってその黒い水に群がり、
そのまま息絶えていきました。
祖父は被爆者となり、足の長さが次第に変わり、
歩けなくなったため、腰の手術を3回行いました。
そのような祖父でしたが、96歳まで生き、
私たちに戦争の悲惨さを伝えてくれました。
菊池郡 田中さん(70代)
私の家族が経験した戦争と戦後の生活について、筆を執らせていただきました。
私の父は南方戦線で終戦を迎え、蚊が媒介するマラリアに罹患し、
生死の境をさまよっていたそうです。
上官は父を見捨てて帰ろうとしたようですが、部隊にいた同じ地区出身の兵士が
「自分の責任で連れて帰る」と父を背負って故郷へ帰ってきてくださいました。
父は故郷に戻った後も病気が回復せず、療養中に結婚しました。
そのため母は、私が生まれた後も私を背負って父を見舞うために病院に通い詰めました。
父が入院する古い木造の病院の薄暗く長い廊下で、
黒猫の光る目に驚いて病室に逃げ込んだ記憶があります。
ベッドの上から、泣きじゃくる私を父が笑いながら見ていました。
それが、父との唯一の思い出です。
そんな父も私が1歳半の頃に他界しました。
そのため、父の顔は遺影でしか知りません。
一方、母は戦後、病気療養中の父と結婚したことで、苦労が続きました。
土地を借りて山を切り開き、焼き畑農業で野菜を育てたり、蚕を飼ったりしました。
また、日雇いに出て、男性と同じように土木作業で現金を稼ぎました。
地下足袋一枚で力仕事を続けたため、足の爪は変形していました。
母は、日の出から日没まで働き詰め、女手一つで私を育ててくれました。
私たち親子は直接の戦争被害者ではないかもしれませんが、
もしも戦争がなかったなら、もし父が無事であったなら、
母はもっと普通の幸せな人生を歩めたのかもしれないと思うことがあります。
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