
※証言やいただいた文章に基づいて記載
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 女性(80代)伝聞
当時6歳。
今の熊本市中央区坪井で経験した空襲。
防空壕に逃げようとしたが、「防空壕自体が燃えている」と言われ田畑を逃げまどった。
人の姿が上空から見えると狙われると思い、姿を隠すために、サトイモ畑の大きな葉の下に
逃げ込むと、そこにはすでに20人ほどの人が身を寄せていた。
さらに、近くの小川には焼夷弾の油が流出し、その油に火が着いたのか、
「川が燃えていた」あの光景は今でも覚えている。
熊本市 前田さん(40代)
中国に出征したことがある祖父(1919年生まれ)は、幼少期の私の枕元で、
太平洋戦争当時の話を聞かせてくれることがありました。
なかでも特に強く印象に残っているのは、戦地で出会った中国人の孤児を引き取り、
従軍中に面倒をみていたという話です。
食事はもちろん移動の際は子どもを軍馬に乗せ、自身はできるだけ徒歩で行軍したと
聞いた記憶があります。
多くの戦友を失いながらも、辛うじて生きながらえ終戦を迎えたそうです。
引揚げの際、その少年は祖父に対し、「日本に一緒につれていってほしい」と
泣いて懇願したそうです。
戦後40〜50年ほど経過したころ祖父は「その少年はどうしているだろうか、
生きていれば今◯◯歳ぐらいだろう、会えるものなら会いたい。」と話すこともありました。
その当時、私はただただ話に聞き入るばかりでしたが、歳を重ねたいま、改めて祖父の話を
思い出すことが多くなっているのは、戦争を風化させるのを許さない世情となっているから
ではないかと感じています。
「戦争だけは絶対にしたらいかん」という誰にともなく発する祖父の言葉を、
何度も枕元で聞きました。
熊本市 本田さん(80代)
私の戦争の記憶です。
終戦前の私が4歳のころ、(1945年)
花岡山(熊本市)を越えて南の方から爆撃機が飛来してきた。
空襲警報と共に、私は母から防空壕に放り込まれた。
防空壕の中から外を見ていると、
爆撃機が焼夷弾を落とすのが見えた。
まるで花火のようにいろいろな色を放っていたのが印象深く記憶に残っている。
焼夷弾は、最初 田んぼに落ち、そして私の家から
約200メートル離れた学校に落ち、校舎が燃え上がった。
防空壕から外に出ると、火事の影響だったのか、とにかく熱かった。
一方で、当時を振り返りと「怖い」という感覚よりも
爆撃機の爆音や、屋根瓦の落ちる音がとにかく嫌だったことを覚えている。
熊本市 橋本さん(60代)
空襲の時、「グラマン戦闘機の操縦士が笑いながら撃っているのが見えた」
その話を母から聞いた時、子ども心に『戦争は人を変える』と思いました。
戦闘機の操縦士も、誰かの子どもで、誰かの父親かもしれないと思ったからです。
熊本市 女性(80代)
熊本大空襲のあの日、私は4歳になったばかりでした。
熊本市の白川の土手にたくさんの人が川の方に足を向けて寝かされていました。
その時、突然空が暗くなり、飛行機(B29)がスッーと、静かに移動してきました。
そして、豆炭のような黒い球がザァーッという音をたてて川面に落ちて、
川は油を流したようにぬめっとなり、その瞬間、メラメラと炎が川面を走りました。
白川の対岸は火の海。
その中に4〜3階建てのビルの柱が火柱になって燃えあがっていました。
83歳の今になっても、頭の中にあるこの映像がくっきりと出てきます。
4歳の子どもに恐ろしいという気持ちは無く。
ただただ、今もその映像は頭の中に出てきてしまいます。
ウクライナの子供たちの心の傷は計り知れません。
熊本市 男性(40代)
17年前、83歳で亡くなった祖父の話です。
孫の私に突然祖父が戦争の話をしたのは、祖父が82歳の時。亡くなる1年前でした。
一番記憶に残っている話は、祖父が宮崎に出征中、宮崎沖に多くの数のアメリカ軍の艦隊を
見た時、その艦隊の数と大砲の装備を見て「日本は負ける」と前線にいた仲間内で話していた
と語ってくれたことです。
ただ、そのような話を上官にすることはできなかったと言っていました。
祖父は本当は戦争の話をしたくなかったんだと思います。
戦争の話をする祖父は、何かを回想しているようでした。
戦争の経験を誰かに伝える必要があると感じていたように見えました。
熊本市 江藤さん(70代)
1950年生まれの私には戦争の実体験はありません。
ただ、戦争の傷跡は体験しています。
足を失った傷痍軍人が新市街(熊本市)の入り口で、手をついてお金を無心する姿。
悲しいアコーディオンの音色が忘れられません。
家族を養うため仕方なく自らの姿をさらしていたとわかったのは最近のことです。
一方、戦争を経験した1910年生まれの私の父は終戦の時は34才。
戦争末期は迎町(熊本市)周辺に住んでいたようですが、そこで米軍の空襲にあったそうです。
先祖伝来の槍や刀、鎧等すべて燃えてしまったそうです。
米軍艦載機の空襲もたびたびあったようです。
機銃掃射のあと、ニヤリと薄笑いを浮かべながら飛び去る若い米兵。
おそらく航空機の機種はグラマンF6Fと思われますが、悔しくてたまらなかったと
言っていました。
玉名市 村田さん(40代)
1923年生まれの祖母から聞いた話しです。
私の祖母は太平洋戦争中に満洲の北、旧ソ連との国境付近の黒龍江省で「進軍食堂」
という名の軍指定の食堂を、料理人の兄と弟と3人で経営していたそうです。
戦況が悪化してきた1945年の5月か6月ごろに、故郷の玉名市月瀬村の村長さんから、
実家の母親の体調が良くないので戻ったほうがいい、と連絡がきたらしく、
そのタイミングで食堂を畳んで帰国することになったそうです。
そして、満州鉄道で帰国していた時にハルピン駅あたりでお兄さんに
「忘れ物をしたから取りに帰る。先に行っておいてくれ」と言われ、一旦別れ、
結局その後兄とは会えず、祖母だけが帰国したそうです。
それから数か月後の8月に旧ソ連軍が満洲に侵攻。
お兄さんはそれに巻き込まれたのか、結局帰国することはなく、
祖母は二度とお兄さんと再会することはなかったそうです。
あの時忘れ物をしなかったら兄も無事に帰国できたのに、と祖母は言っていました。
祖母にとって青春時代を過ごした満洲での食堂の思い出は忘れられないらしく、
死ぬまでにもう一度満洲へ行きたいと言っていましたが、数年前に99歳で亡くなりました。
私は歴史が好きでしたので、祖父や祖母から戦争時代の頃の話しをたくさん聞きました。
あの時代を生きた人達がもうすぐいなくなってしまう時代になってきました。
絶対に忘れてはいけません。
私はできる限り伝えていきたいと思います。
熊本市 女性(80代)
1944〜1945年にかけて当時小学生だった私は玉名市に住んでいました。
爆撃機が来襲する恐れがある際に鳴る「警戒警報」の音を聞くと、
死に物狂いで防空壕に逃げ込みました。
夜は、街灯もない真っ暗な道を走って逃げた記憶があります。
また、B29が編隊を組んで来襲するとガラスの戸がガタガタと揺れ、
恐怖を感じていました。
1945年の熊本大空襲の際は、玉名市から熊本市の方向を見ると、空が真っ赤になっていて、
空襲の被害にあっていると思いました。
終戦直前の1945年8月9日午前、雲一つない晴天でした。
菊池川の堤防にいたら「ドロドロドロー」という音が響き、
長崎の方向にキノコ雲がみえたことを覚えています。
熊本市 寺本さん(80代)
1945年7月1日の熊本大空襲。
熊本市の本荘小学校の近くに住んでいた私は、3人きょうだいの長男で小学3年生だった。
夜中、空襲警報が鳴る中、目が不自由な祖父と、4歳の妹を乳母車に乗せ、
そして7歳の弟を引き連れ逃げまどった。
焼夷弾がいくつも落とされ、爆発音が幾度となく鳴り響いていた。
空襲が2時間ほど続く中、燃えていない方、燃えていない方へと逃げた結果、
なんとか命を取り留めたが、その時のことは、今でも記憶に鮮明に残っている。
空襲の後、夜が明けると街の姿は変わっていた。
自分の家から見えるはずのない阿蘇の山々が見えるようになっていた。
建物が燃えてなくなっていたからだ。
あの日の街に漂う「いやなにおい」は今でも覚えている。
熊本市 寺本さん(80代)
父が出征する前に、本荘(熊本市)の自宅で撮影した写真です。
戦地フィリピンから父は、4年間にわたって私たち子どもや
母に手紙を送り続けてくれました。
【以下、ハガキ記載の内容】*ほぼ原文のまま
ヨシタカは、小学2年生になりましたか。
そして、毎日学校に行っていますか。
よく先生の教えを守って、良い日本人になって下さい。
お父様が軍艦の絵をかきました。
見てください。
体を大切に頼みます。
サヨナラ。
1944年4月18日
熊本市 徳永さん(80代)
父は私が2歳の時、出征先の台湾で亡くなったそうです。
1945年1月9日のことだったそうだと聞いています。
それから80年。
父が出征した時、私は生後6か月。
私は父の顔も、声も、肌のぬくもりも分からないが、一度は父が亡くなった場所を訪れ、
追悼したいと思い続け、その思いがやっと叶いました。
今年1月、姉と共に台湾・高雄を訪れたのです。
父の部隊は第96駆潜特務艇。
資料によると高雄沖36キロの地点で、空から攻撃を受け、沈没したようです。
多くの戦友と共に海の底に沈んだ父。
冷たい海に沈み、遺骨、遺品も回収されず、無念だったと思います。
父の死から80年。
36キロ先に父がいると思うとうれしかった。
この体験を、子や孫に伝え、若い世代に引き継ぐことが私たちの責務だと思っています。
熊本市 森さん(70代)
亡くなった父は、1920年生まれで、陸軍第6師団13連隊の少尉として、
フィリピンのネグロス島で終戦を迎えました。
しかし、その父はB級戦犯として絞首刑を言い渡され、
巣鴨プリズン(東京)に収監されましたが、後に恩赦より出所しました。(*詳細な出所時期不明)
なぜB級戦犯となったのか、父は私に多くを語りませんでしたが、
「フィリピンでは、軍服を着ず動いていて、情報収集にあたっていた。」
という話を聞いたことがあります。
また、絞首刑の判決を受けた時の思いについては、
「部下を何人も死なせてしまった。そもそも生きて日本に帰れるとは思っていなかった。
絞首刑の判決は仕方がない。」とも語っていました。
父が巣鴨プリズンで記した「獄中記」が残っています。
【以下、獄中記】*ほぼ原文のまま
(*自身の刑が執行された際に、遺品として家族へ渡そうとしたもの)
この帳面は、死刑の宣告を受けてから殺されるまでの
独房生活中、その日その日、頭に浮かんだものを、その都度書いたものである。
寂として声もない一間半の独房、四面と天井は大きな鉄の格子。床はコンクリート。
訪ねて来る人もなく、ただ一人座ってこの帳面に向かっている等の姿と環境を
頭に浮かべて静かにこの帳面を読んでください。
※獄中記は次のエピソード「巣鴨プリズン 獄中で書かれた日記」に続きます。
熊本市 森さん(70代)
B級戦犯として、絞首刑の判決を受け収監された父の日記
【以下、獄中記】*一部抜粋ほぼ原文のまま
鉄格子の隅にせっせと働くクモの動きを眺めて時を過ごす。
見事にはり廻されたクモの巣に、あわれにも身の自由を失った小さな虫が一つ。
早、観念したのか総てを天に任せて吹く風にゆらゆら揺れている。
間もなく、この小さい虫もあのクモによって殺されてしまうだろう。
ここにも一つの虐殺が行われようとしている。
あの虫も俺と同じく理由なくして、殺されてしまうのであろう。
だが小虫よ嘆くな。お前を殺したやつもいずれ君の情を追ってあの世へ行くのだ。
とうとう小虫は死んでしまった。
そして俺は、その可哀そうな小虫の仇をうつべく、
あのクモをつかんで、コンクリートの床に力一杯たたきつけた。
間もなくそのクモは死んだ。今度は俺の番だ・・・
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