
※証言やいただいた文章に基づいて記載
熊本市 森さん(70代)
亡くなった父は、1920年生まれで、陸軍第6師団13連隊の少尉として、
フィリピンのネグロス島で終戦を迎えました。
しかし、その父はB級戦犯として絞首刑を言い渡され、
巣鴨プリズン(東京)に収監されましたが、後に恩赦より出所しました。(*詳細な出所時期不明)
なぜB級戦犯となったのか、父は私に多くを語りませんでしたが、
「フィリピンでは、軍服を着ず動いていて、情報収集にあたっていた。」
という話を聞いたことがあります。
また、絞首刑の判決を受けた時の思いについては、
「部下を何人も死なせてしまった。そもそも生きて日本に帰れるとは思っていなかった。
絞首刑の判決は仕方がない。」とも語っていました。
父が巣鴨プリズンで記した「獄中記」が残っています。
【以下、獄中記】*ほぼ原文のまま
(*自身の刑が執行された際に、遺品として家族へ渡そうとしたもの)
この帳面は、死刑の宣告を受けてから殺されるまでの
独房生活中、その日その日、頭に浮かんだものを、その都度書いたものである。
寂として声もない一間半の独房、四面と天井は大きな鉄の格子。床はコンクリート。
訪ねて来る人もなく、ただ一人座ってこの帳面に向かっている等の姿と環境を
頭に浮かべて静かにこの帳面を読んでください。
※獄中記は次のエピソード「巣鴨プリズン 獄中で書かれた日記」に続きます。
熊本市 森さん(70代)
B級戦犯として、絞首刑の判決を受け収監された父の日記
【以下、獄中記】*一部抜粋ほぼ原文のまま
鉄格子の隅にせっせと働くクモの動きを眺めて時を過ごす。
見事にはり廻されたクモの巣に、あわれにも身の自由を失った小さな虫が一つ。
早、観念したのか総てを天に任せて吹く風にゆらゆら揺れている。
間もなく、この小さい虫もあのクモによって殺されてしまうだろう。
ここにも一つの虐殺が行われようとしている。
あの虫も俺と同じく理由なくして、殺されてしまうのであろう。
だが小虫よ嘆くな。お前を殺したやつもいずれ君の情を追ってあの世へ行くのだ。
とうとう小虫は死んでしまった。
そして俺は、その可哀そうな小虫の仇をうつべく、
あのクモをつかんで、コンクリートの床に力一杯たたきつけた。
間もなくそのクモは死んだ。今度は俺の番だ・・・
上益城郡 堀さん(50代)
40年ほど前。
小学校の修学旅行で長崎県に行った。
平和公園では、原爆の被害にあった瓦を探すことに。
植込みを探すと、熱で溶けてできた水泡の固まったような跡がある瓦が見つかった。
今思えば、戦争の悲惨さを実感した瞬間だったように思う。
熊本市 片桐さん(80代)
1945年の熊本大空襲があった時期、ほぼ毎日、ラジオから「B29が機、
(方向)から来ている」と警戒放送が流れ、
爆撃機が近づくと「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っていた。
防空壕に逃げても、外では「ドーン」「ドーン」と音が鳴り響いていた。
夜は、家を明るくしていると爆撃機に狙われるため「ろうそく送電」と言われる、
豆電球くらいの灯で生活をしていた。
それでも、照明弾を放たれると、周囲は明るくなり、
当時小学生だった私は恐怖を感じていた。
熊本大空襲では、自宅が焼失し、近くの燃えていない家には機銃された跡がたくさんあった。
警戒警報から空襲までの時間は、長くても30分。
必死に防空壕に逃げた。
今でも水害を防ぐサイレンの音が鳴ると当時を思いだす。
下益城郡 四丸さん(90代)
太平洋戦争がはじまった時、私は小学生でした。
父は1943年ごろから鹿児島で軍需工場を営んでいましたが、1945年になり、
戦況が悪化していくと、「アメリカが九州に上陸して来るから逃げないといけない」と、
家族で疎開することになりました。
疎開先は、九州の中心ということで熊本・砥用町に。
8月11日の夜、貨物列車に乗り鹿児島駅から熊本駅へ。
列車には、学徒動員された中学生の姿もありました。
途中、アメリカ軍の飛行機が来襲するたびに、「逃げろ」との掛け声で、列車が止まり
橋の下へ逃げ込んでいたのを覚えています。本当に恐ろしかった。
命からがら熊本駅に着くと、そこから砥用町に向かう熊延鉄道の始発駅
南熊本駅を目指しました。
ただ、その日は熊本大空襲の直後で、建物は燃えつくされ水道も破壊され、蛇口から
ポタポタと落ちる水を飲みながら、必死に弟たちの手を引いて南熊本駅まで歩きました。
砥用町についたのは14日の夜。翌日、近くの津留川で、すすまみれの顔と体を洗いました。
そして迎えた終戦。
戦争が終わったことを知って一番に感じたのは「もう逃げなくていい。隠れなくていい」
ということでした。
熊本市 前田さん(40代)
中国に出征したことがある祖父(1919年生まれ)は、幼少期の私の枕元で、
太平洋戦争当時の話を聞かせてくれることがありました。
なかでも特に強く印象に残っているのは、戦地で出会った中国人の孤児を引き取り、
従軍中に面倒をみていたという話です。
食事はもちろん移動の際は子どもを軍馬に乗せ、自身はできるだけ徒歩で行軍したと
聞いた記憶があります。
多くの戦友を失いながらも、辛うじて生きながらえ終戦を迎えたそうです。
引揚げの際、その少年は祖父に対し、「日本に一緒につれていってほしい」と
泣いて懇願したそうです。
戦後40〜50年ほど経過したころ祖父は「その少年はどうしているだろうか、
生きていれば今◯◯歳ぐらいだろう、会えるものなら会いたい。」と話すこともありました。
その当時、私はただただ話に聞き入るばかりでしたが、歳を重ねたいま、改めて祖父の話を
思い出すことが多くなっているのは、戦争を風化させるのを許さない世情となっているから
ではないかと感じています。
「戦争だけは絶対にしたらいかん」という誰にともなく発する祖父の言葉を、
何度も枕元で聞きました。
熊本市 徳永さん(80代)
父は私が2歳の時、出征先の台湾で亡くなったそうです。
1945年1月9日のことだったそうだと聞いています。
それから80年。
父が出征した時、私は生後6か月。
私は父の顔も、声も、肌のぬくもりも分からないが、一度は父が亡くなった場所を訪れ、
追悼したいと思い続け、その思いがやっと叶いました。
今年1月、姉と共に台湾・高雄を訪れたのです。
父の部隊は第96駆潜特務艇。
資料によると高雄沖36キロの地点で、空から攻撃を受け、沈没したようです。
多くの戦友と共に海の底に沈んだ父。
冷たい海に沈み、遺骨、遺品も回収されず、無念だったと思います。
父の死から80年。
36キロ先に父がいると思うとうれしかった。
この体験を、子や孫に伝え、若い世代に引き継ぐことが私たちの責務だと思っています。
熊本市 甲斐さん(80代)
1945年。当時2歳の頃の記憶です。
飛行機の音がしたら、防空壕へ逃げる。
これを繰り返していました。
防空壕までは、家から歩いて約5分。
母に手を引かれて行っていました。
今でも明確に覚えているのは、グラマン戦闘機と思われる飛行機の音です。
今の小型機よりも甲高い音だったと記憶しています。
防空壕の中では、母が玄米を一升瓶に入れて、竹でついて、
精米していたことも覚えています。
当時2歳でしたが、鮮明に記憶が残っています。
また、自宅では、夜になると空襲の目標にならないようにと、
電灯の笠の部分に黒い布を被せ、光が外にもれないようにしていたことも覚えています。
終戦後、中国から引き揚げてきた父からは、戦争の話を聞くことはありませんでした。
恐らく、戦地ではいろいろなことがあり、話したくなかったのだろうと思います。
最後に、日中戦争中(1937年)に熊本県と熊本市の名前で
配布されたとみられる資料も提供します。
B5サイズほどの紙には見出しに「納税報国」「期限確守」と
書かれていて、文章の中には、
帝国臣民の重き務めが3つある。
一に兵役
二に納税
三に学びの庭六年
そして「銃後の赤心」とも記されています。
宇城市 本田さん(90代)
*手記を基に掲載
戦後、日本の多くの若者が遠く離れた異国の地で過酷な運命を背負いました。
私もその一人です。
戦後 私はシベリアに抑留され、極寒の地で過酷な労働を強いられ、
飢えや寒さと闘いました。
その過酷さから、多くの仲間たちがこの世を去りました。
一方で、人の温かさにも触れました。
監視のない農場で、地元の人たちから食料を分けてもらいました。
これは、極限の状況でも人と人が助け合えることを教えてくれました。
今 私は、母国 日本に帰ることなく、シベリアの地で亡くなった
戦友たちの無念を受け止め、彼らの声を未来へつなぐことが生きる意味となっています。
シベリア抑留の歴史は、戦争がもたらした現実です。
これを、私たちが語り継いでいくべきだと思っています。
私が伝えたいのは、「戦争が奪ったものの大きさ」と
「どのような状況でも人の温かさは失われない」こと、
そして「二度と悲劇を繰り返さないように、平和を守る」ということです。
熊本市 平野さん(70代)
私が両親から聞いた話です。
1926年生まれの父は、18歳ごろから中国・青島へ行き、
軍服を作る工場で働いていました。
その時、召集令状となる「赤紙」が父に届きましたが、
父は工場で製造の指導者的立場だったことが影響したのか、
最終的には入隊が免除(猶予)されたということです。
父が入隊予定だった部隊は、戦後シベリアに連れていかれたと聞きました。
あの時、父が入隊しシベリアに行っていたら、父は日本に帰ることができず、
私たち兄妹もこの世に生まれていなかったかもしれないと思うことがあります。
一方、母は三角町で生まれ育ちました。
戦時中は、空襲の度に防空壕に逃げ込んでいましたが、避難している際、
戦闘機から発射された機関銃の弾が防空壕の扉を貫通し、
扉の近くにいた数人が亡くなったと話していました。
このように、多くの方の犠牲があって日本は復興・発展し、
今の平和な生活ができていると思っています。
熊本市 橋本さん(90代)
1932年生まれの私は、12〜13歳の時に空襲を経験しました。
熊本市への空襲は1944年後半から1945年にかけて頻発し、昼はグラマン戦闘機、
夜はB29といった具合です。
アメリカ軍機が飛来する回数は数えきれないくらいの頻度でした。
当時、中学生となった私は、学校の指示のもと熊本市中心部にあった校舎には通わず、
自宅のある川尻から歩いて30分ほどの田畑でコメや麦を栽培することに
従事していました。
その際、空襲警報が周囲に鳴り響くと、近くを流れる緑川にかかる橋の下に
逃げ込んでいました。
戦闘機は私たちから操縦士の顔が見えるくらいまで降下してきて、
「ダッダッダッダッ…」と機銃掃射してきていました。
死と隣り合わせの状況が続いていましたが、相次ぐ空襲で、
なぜか怖いという感覚は無くなっていて「また来たか」という感じになっていました。
また、夜の空襲ではアメリカ軍機が空の上から建物に油のようなものをまいた上で、
火をつけていました。
油のようなものの影響なのか、火がついた家は一瞬にして炎に包まれていました。
当時は、空襲から身を守るため、玄関のドアや窓などにカギをかけることはなく、
夜中でもすぐに家を飛び出して、防空壕に逃げ込めるようにしていたことを
今でも覚えています。
戦争を経験して今いえるのは
「戦争で一番かわいそうなのは、一般市民である。」
このことです。
熊本市 山口さん(60代)
*手記を基に掲載
当時15歳の亡き母が語ってくれた、1945年8月10日の熊本大空襲の話です。
その日、母と友人は2人で学校(熊本市)の運動場の唐芋畑で草取りをしていました。
その時、突然 南の方から低い音で「ブーン」という飛行機の音が聞こえてきたかと思うと、
それと同時に「空襲警報!」と叫ぶ声が聞こえました。
ただ、母と友人は突然の出来事に、どこへ逃げればいいのか分からず、
その場に立ち尽くしてしまいました。
するとその姿を見た兵士の一人に、
「おい、こっちだ。こっちに来い。ここに入れ。」と、
軍用に整備された防空壕に入れてもらい、命を救われたそうです。
しばらくして、防空壕から出ると小学校の校舎はものすごい炎に包まれていて、
あの時、防空壕に逃げ込めなかったら命はなかっただろうと
当時のことを語っていました。
また、この空襲では、
母のもう一人の友人も壮絶な経験をしていたそうです。
その友人の方は、空襲から逃れようと、幼い妹2人を連れて
自宅の防空壕へと急いでいました。
3人の後ろからは、戦闘機がバラバラバラと機銃掃射しながら
ものすごい勢いで近づいてきたといいます。
友人は、右手と左手それぞれに妹の手を握りしめ、
2人を引っ張りながら無我夢中で走っていました。
戦闘機は、大きな音をたてながら頭上を越えていきます。
その時、ハッと気づくと、2人の妹を引いているはずの片方の手だけが
軽くなっているのに気づいたそうです。
慌てて振り向くと、1人の妹の片腕だけを握って走っていたのです。
妹は一命を取り留めたものの、片腕を失いました。
熊本大空襲から80年。
これが、実際に身近であった戦争の話です。
熊本市 柴田さん(60代)
2016年、熊本地震で築約130年の自宅は大規模半壊。
壁などに大きな被害が出ました。
その片付けの際に見つけた、2階の梁から飛び出た金属の物体。
後に、熊本大空襲で戦闘機から機銃掃射された際の機銃弾が
梁にめり込んだものだと分かりました。
他にも地震で被害を受けた材木を割ってみると、
その中から同じような機銃弾が出てきました。
熊本地震の後に亡くなった父は、熊本大空襲の時10歳。
空襲は「本当に怖かった。」と話し、
戦後、自宅の庭を掘りかえしたら、機銃弾がたくさん出てきたとも言っていました。
ただ、父から空襲の詳しい話を聞くことはありませんでした。
今、考えると父にとって戦争は忘れたい記憶だったのかもしれません。
戦後80年。
改めて材木に残っていた弾を持ってみると、その重さに
「このような弾が、人間に当たっていたら、ひとたまりもなかったと思います。
父も本当に怖かっただろう。」と感じています。
熊本市 男性(20代)
長崎に住む祖母(90) は10歳の時に長崎市で被爆しました。
祖母は毎年、原爆が投下された8月9日の平和祈念式典を見るたびに、
涙を流していましたが、祖母の口から戦争の話を聞くことはほとんどありませんでした。
しかし、10年前 私が高校生の時です。
地元新聞社が主催した「被爆体験を伝える会」で、祖母が自分の経験を語ったのです。
なぜ語ったのか。
祖母は「戦争を経験している人が減ってきている。
きちんと戦争の現実を伝えていきたい。」とその思いを話してくれました。
その時に聞いた内容を、伝えたいと思います。
1945年8月9日午前11時すぎ。
当時10歳だった祖母は、爆心地から約10キロ離れた場所に住んでいたそうです。
祖母は、両親の代わりに3歳の妹の面倒をみながら、ほかの子どもたちと一緒に
遊んでいた時だったといいます。
ピカッという閃光と同時にものすごい風に襲われ、抱えていた妹ごと、
吹き飛ばされたそうです。
気が付くと祖母の腕は火傷したように熱くなり、妹は何かにぶつけたのか、
頭から血を流していたといいます。
さらに、上空を見ると青く晴れ渡っていた空が真っ赤に染まり、
地上を見ると血だらけの人や、火傷した人たちが
ぞろぞろと歩いていくのが見えたといいます。
被爆した人たちからは「水を飲ませてください」との声が聞かれ、
周囲の人が、近くの井戸から水をくみ、歩いてきた人たちに
水を飲ませたり、体にかけたりしていたそうです。
2日後、爆心地の近くに連れられて行くと、そこには恐ろしい光景が
広がっていました。
町には煙が上がり、町全体が黒くくすぶっている状況で、
人や牛や馬が、あちこちに倒れたままだったといいます。
今も原爆の後遺症に苦しめられる祖母が繰り返す言葉。
それは「戦争を2度としてはいけい」ということです。
熊本市 山口さん(60代)
*手記を基に掲載
1930年生まれの亡き母に30年ほど前に聞いた話です。
戦時中で思い出すことはと聞くと「とにかくひもじかった。」と言っていました。
食糧難の時代、食事は大根やカボチャの雑炊がほとんどで、とにかく空腹だったそうです。
「唐芋ご飯」もありましたが、それも芋にご飯粒が少しくっついているぐらいだったと
いいます。
何度か、近くの田んぼで田植えの手伝いをしたときに、
農家の方からもらった白米だけのおにぎりが、とても美味しかったと話していました。
当時、国民学校(熊本市)の運動場は、唐芋畑にされ、
校舎は陸軍の兵隊宿舎として使われていたことから、
子どもたちは近くの神社や寺に分かれて勉強していたそうです。
ただ、上級生(現在の中学生)は草取り作業や、竹槍訓練などで
ほとんど勉強らしい勉強はできなかったと、当時を振り返っていたことが
記憶に残っています。
熊本市 渡辺さん(70代)
この家族写真に写る男性が、1942年当時、
霞ヶ浦海軍航空隊(茨城)に所属していた義父(当時26)です。
義母(当時24)に抱えられているのが、私の夫(当時5か月)です。
この写真が義母に届いて、約1か月後の5月19日。
義父は家族に宛て次のような手紙を記していました。
「決して私のことは心配するな。総ては運だ。悪運は強い、安心して居て呉れ。」
「旬日中に前進する。」(原文のまま)
この後、義父はパイロットとして航空母艦「飛龍」に搭乗し、
ミッドウェー島へ向かいました。
しかし、6月5日、義父が乗る「飛龍」はアメリカ軍の攻撃を受け沈没。
帰らぬ人となりました。
その年の11月、佐世保で執り行われた「合同海軍葬」
参列した義母が涙を流すと「軍人の妻は涙を流すな。」と叱責されたそうです。
大切な人の死を悼むこともできない時代を生き抜いた義母は、
いつも「戦争は家族を奪う。」と話していました。
そんな義母が、捨てきれなかったのが義父の海軍制帽です。
結婚して数か月で失った義父を、少しでも感じていたかったのだと思います。
また、義父の遺骨が戻ってこなかったことから、
義母は「まだ海のどこかに主人の体がある。」と語り、
「海を見ると悲しくなる。」と口癖のように話していたことが強く印象に残っています。
玉名市 森さん(80代)
1945年8月の記憶です。
3歳半だった私は、新町(熊本市)*当時:新細工町に住んでいて、
この日は2階で3歳上の兄と一緒に遊んでいました。
その時です。
空襲警報のサイレンが鳴り響いたかと思うと、
私たちが庭にある防空壕に避難する間もなく、
空から「バッバッバッ」と機銃掃射が始まりました。
攻撃してきたのは、おそらくB29の護衛機数機だったと思います。
私が兄に抱きしめられて身動きができない状態でいると、
機関銃の弾が家の窓ガラスを貫通し、
私たち兄弟がいた場所から約1メートル離れた場所にある
タンス2棹(さお)を打ち抜いたのが分かりました。
その後、近くの学校(現:西山中学校)が爆撃を受け、
燃え上がる建物を窓から乗り出して見ていました。
この日のことは、あまりの恐怖に今でも記憶に鮮明に残っています。
私が戦争当時使っていた「防空頭巾」と共に、
父が持っていた「千人針」も戦争の記憶として必要と思い、今も保管しています。
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