
※証言やいただいた文章に基づいて記載
上益城郡 女性(70代)
約2年前に96歳で亡くなった母が、熊本大空襲の状況を書き留めていましたので、
お送りします。
【以下、お母様の日記】*一部を抜粋 ほぼ原文のまま
1945年、空襲が激しくなり、元日も健軍地区(熊本市)の三菱重工業へ出勤。
朝暗いうちから出勤し、帰りも暗くなっていたが、それでも皆若いから楽しかった。
幹部の方から部品番号を尋ねられ、自分の担当だったけど、間違っていたら大変だと思い
言えなかった。
空襲がだんだんひどくなり、帳簿をもって避難しました。
7月1日、夜、空襲で弾がヒューヒューと落ちてくる。
バケツを持って防空壕から出てみたら、家の前が真っ赤に燃えているのが見えた時は、
ダメだと思い。そのまま4人で逃げました。
必死に走り、敵機の機銃を避け、田んぼに這いつくばった。
赤ちゃんをおんぶしていた奥さんが、道の下の田んぼの水たまりに落ちたので、
私も下におりて、押し上げました。
熊本市 中川さん(50代)
約4年前、両親が他界し、仏壇を整理していた際に出てきたハガキです。
祖父の弟(当時19歳か20歳)が日中戦争のさ中、戦地から父親宛てに送ったものです。
ハガキを読んだときは、胸が熱くなりました。
この手紙から約4年後、祖父の弟は病を患い亡くなりました。
【以下、ハガキ記載の内容】*ほぼ原文のまま
乱筆にて御免ください。
皆さまにはお変わりありませんか。
僕も元気で、中国(北支)に着き、軍務に励んでいます。
ご安心ください。
近所の方々にもよろしく(四六四九)お伝えください。
母上様には、お身体大切にとお伝えください。
妹にも、一生懸命に勉強して、偉い人になるように。
中国(支那)の地の珍しいこと。面白いことは、後の便りで詳しくお伝えいたします。
上益城郡 堀さん(50代)
40年ほど前。
小学校の修学旅行で長崎県に行った。
平和公園では、原爆の被害にあった瓦を探すことに。
植込みを探すと、熱で溶けてできた水泡の固まったような跡がある瓦が見つかった。
今思えば、戦争の悲惨さを実感した瞬間だったように思う。
菊池市 佐藤さん(60代)
義母の実家に保管されていた戦争の資料です。
日中戦争で台湾に派遣された義父。
帰還した際に交付されたであろう支那事変行賞 賜金国庫債券。
(政府が資金調達のために発行した債券)
昭和15年(1940年)発行と記されてある。
帰還後の義父の生活は厳しかったと聞いているが、
1枚も使われていなかった。
義父は戦争について、何かしらの思いがあったのかもしれない。
また、資料を整理していた時に出てきた
旧陸軍大刀洗飛行場(福岡)で叔父が撮影されたとみられる写真。
そこには「八八式偵察機」や「愛国」と書かれた飛行機が映っていた。
熊本市 中尾さん(50代)
祖父は、理髪師として活躍していましたが、戦争で海軍に徴兵され、
海防艦に乗っていたようです。
わずかな戦争の記憶かもしれませんが、資料として残していければと思い連絡しました。
一つは、1945年熊本大空襲時の空襲による被害を証明する「罹災証明書」。
祖母の名前が世帯主にありました。
もう一つは、祖父の弟の「戦死告知書」戦死したことを国から家族へ伝えたもの。
祖父から戦争の話は聞いたことがないが、祖父の遺品として保管していました。
熊本市 女性(90代)
1945年7月1日の熊本大空襲では、師範学校(熊本市)の寮にいました。
「ヒューッ」という音を聞いて、第二高等女学校(熊本市)に焼夷弾が落ちるのが
見えました。
私は消火班だったので、大八車に乗せた消火設備を8人がかりで移動させ消火に
あたりました。その際、左足の甲を大八車にひかれ、臨時の救護室に連れていかれました。
その後は、近所の人がリアカーで迎えに来てくれ家に帰ったことを覚えています。
熊本市 本田さん(80代)
私の戦争の記憶です。
終戦前の私が4歳のころ、(1945年)
花岡山(熊本市)を越えて南の方から爆撃機が飛来してきた。
空襲警報と共に、私は母から防空壕に放り込まれた。
防空壕の中から外を見ていると、
爆撃機が焼夷弾を落とすのが見えた。
まるで花火のようにいろいろな色を放っていたのが印象深く記憶に残っている。
焼夷弾は、最初 田んぼに落ち、そして私の家から
約200メートル離れた学校に落ち、校舎が燃え上がった。
防空壕から外に出ると、火事の影響だったのか、とにかく熱かった。
一方で、当時を振り返りと「怖い」という感覚よりも
爆撃機の爆音や、屋根瓦の落ちる音がとにかく嫌だったことを覚えている。
熊本市 女性(80代)伝聞
当時6歳。
今の熊本市中央区坪井で経験した空襲。
防空壕に逃げようとしたが、「防空壕自体が燃えている」と言われ田畑を逃げまどった。
人の姿が上空から見えると狙われると思い、姿を隠すために、サトイモ畑の大きな葉の下に
逃げ込むと、そこにはすでに20人ほどの人が身を寄せていた。
さらに、近くの小川には焼夷弾の油が流出し、その油に火が着いたのか、
「川が燃えていた」あの光景は今でも覚えている。
熊本市 橋本さん(60代)
空襲の時、「グラマン戦闘機の操縦士が笑いながら撃っているのが見えた」
その話を母から聞いた時、子ども心に『戦争は人を変える』と思いました。
戦闘機の操縦士も、誰かの子どもで、誰かの父親かもしれないと思ったからです。
熊本市 女性(80代)
熊本大空襲のあの日、私は4歳になったばかりでした。
熊本市の白川の土手にたくさんの人が川の方に足を向けて寝かされていました。
その時、突然空が暗くなり、飛行機(B29)がスッーと、静かに移動してきました。
そして、豆炭のような黒い球がザァーッという音をたてて川面に落ちて、
川は油を流したようにぬめっとなり、その瞬間、メラメラと炎が川面を走りました。
白川の対岸は火の海。
その中に4〜3階建てのビルの柱が火柱になって燃えあがっていました。
83歳の今になっても、頭の中にあるこの映像がくっきりと出てきます。
4歳の子どもに恐ろしいという気持ちは無く。
ただただ、今もその映像は頭の中に出てきてしまいます。
ウクライナの子供たちの心の傷は計り知れません。
熊本市 江藤さん(70代)
1950年生まれの私には戦争の実体験はありません。
ただ、戦争の傷跡は体験しています。
足を失った傷痍軍人が新市街(熊本市)の入り口で、手をついてお金を無心する姿。
悲しいアコーディオンの音色が忘れられません。
家族を養うため仕方なく自らの姿をさらしていたとわかったのは最近のことです。
一方、戦争を経験した1910年生まれの私の父は終戦の時は34才。
戦争末期は迎町(熊本市)周辺に住んでいたようですが、そこで米軍の空襲にあったそうです。
先祖伝来の槍や刀、鎧等すべて燃えてしまったそうです。
米軍艦載機の空襲もたびたびあったようです。
機銃掃射のあと、ニヤリと薄笑いを浮かべながら飛び去る若い米兵。
おそらく航空機の機種はグラマンF6Fと思われますが、悔しくてたまらなかったと
言っていました。
熊本市 男性(40代)
17年前、83歳で亡くなった祖父の話です。
孫の私に突然祖父が戦争の話をしたのは、祖父が82歳の時。亡くなる1年前でした。
一番記憶に残っている話は、祖父が宮崎に出征中、宮崎沖に多くの数のアメリカ軍の艦隊を
見た時、その艦隊の数と大砲の装備を見て「日本は負ける」と前線にいた仲間内で話していた
と語ってくれたことです。
ただ、そのような話を上官にすることはできなかったと言っていました。
祖父は本当は戦争の話をしたくなかったんだと思います。
戦争の話をする祖父は、何かを回想しているようでした。
戦争の経験を誰かに伝える必要があると感じていたように見えました。
熊本市 寺本さん(80代)
1945年7月1日の熊本大空襲。
熊本市の本荘小学校の近くに住んでいた私は、3人きょうだいの長男で小学3年生だった。
夜中、空襲警報が鳴る中、目が不自由な祖父と、4歳の妹を乳母車に乗せ、
そして7歳の弟を引き連れ逃げまどった。
焼夷弾がいくつも落とされ、爆発音が幾度となく鳴り響いていた。
空襲が2時間ほど続く中、燃えていない方、燃えていない方へと逃げた結果、
なんとか命を取り留めたが、その時のことは、今でも記憶に鮮明に残っている。
空襲の後、夜が明けると街の姿は変わっていた。
自分の家から見えるはずのない阿蘇の山々が見えるようになっていた。
建物が燃えてなくなっていたからだ。
あの日の街に漂う「いやなにおい」は今でも覚えている。
熊本市 寺本さん(80代)
父が出征する前に、本荘(熊本市)の自宅で撮影した写真です。
戦地フィリピンから父は、4年間にわたって私たち子どもや
母に手紙を送り続けてくれました。
【以下、ハガキ記載の内容】*ほぼ原文のまま
ヨシタカは、小学2年生になりましたか。
そして、毎日学校に行っていますか。
よく先生の教えを守って、良い日本人になって下さい。
お父様が軍艦の絵をかきました。
見てください。
体を大切に頼みます。
サヨナラ。
1944年4月18日
玉名市 村田さん(40代)
1923年生まれの祖母から聞いた話しです。
私の祖母は太平洋戦争中に満洲の北、旧ソ連との国境付近の黒龍江省で「進軍食堂」
という名の軍指定の食堂を、料理人の兄と弟と3人で経営していたそうです。
戦況が悪化してきた1945年の5月か6月ごろに、故郷の玉名市月瀬村の村長さんから、
実家の母親の体調が良くないので戻ったほうがいい、と連絡がきたらしく、
そのタイミングで食堂を畳んで帰国することになったそうです。
そして、満州鉄道で帰国していた時にハルピン駅あたりでお兄さんに
「忘れ物をしたから取りに帰る。先に行っておいてくれ」と言われ、一旦別れ、
結局その後兄とは会えず、祖母だけが帰国したそうです。
それから数か月後の8月に旧ソ連軍が満洲に侵攻。
お兄さんはそれに巻き込まれたのか、結局帰国することはなく、
祖母は二度とお兄さんと再会することはなかったそうです。
あの時忘れ物をしなかったら兄も無事に帰国できたのに、と祖母は言っていました。
祖母にとって青春時代を過ごした満洲での食堂の思い出は忘れられないらしく、
死ぬまでにもう一度満洲へ行きたいと言っていましたが、数年前に99歳で亡くなりました。
私は歴史が好きでしたので、祖父や祖母から戦争時代の頃の話しをたくさん聞きました。
あの時代を生きた人達がもうすぐいなくなってしまう時代になってきました。
絶対に忘れてはいけません。
私はできる限り伝えていきたいと思います。
熊本市 女性(80代)
1944〜1945年にかけて当時小学生だった私は玉名市に住んでいました。
爆撃機が来襲する恐れがある際に鳴る「警戒警報」の音を聞くと、
死に物狂いで防空壕に逃げ込みました。
夜は、街灯もない真っ暗な道を走って逃げた記憶があります。
また、B29が編隊を組んで来襲するとガラスの戸がガタガタと揺れ、
恐怖を感じていました。
1945年の熊本大空襲の際は、玉名市から熊本市の方向を見ると、空が真っ赤になっていて、
空襲の被害にあっていると思いました。
終戦直前の1945年8月9日午前、雲一つない晴天でした。
菊池川の堤防にいたら「ドロドロドロー」という音が響き、
長崎の方向にキノコ雲がみえたことを覚えています。
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